津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

武士と大名の古文書入門

2010-06-17 09:05:11 | 書籍・読書
武士と大名の古文書入門
新井 敦史
天野出版工房

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【本の内容】
武士の暮らし…、大名の暮らし…くずし字一字一字を分解し解説。
武家文書が読めるようになる待望の入門書。

【目次】
第1章 激動の幕末・維新
   (水戸天狗党を斬る、慶喜から病気見舞い、江戸から帰藩)
第2章 領内を治める
   (城の請取りと在番、お殿様の日記、飢饉への備え、藩校の校則、豪商からの援助)
第3章 様々な交流
   (将軍吉宗の手紙、大名同士の交流、松尾芭蕉を歓待)
第4章 武家の重要文書
   (家綱からの御朱印、大名家の家督相続、関ヶ原合戦のあと)
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長ったらしい書名ですが・・・・

2010-06-17 08:41:52 | 書籍・読書
黒田官兵衛(如水)の妹 妙圓大姉―備前と筑前の浦上氏と小河氏 福岡城・名島城・伊野皇大神宮
荻野 忠行
梓書院

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【本の内容】
初代姫路城主黒田官兵衛(如水)は豊臣秀吉の軍師として播磨から筑前へと戦国の世を駆け抜ける。妙圓など三姉妹もそれぞれの数奇な運命を辿る。官兵衛(如水)の家臣となった浦上一族と小河一族の知られざる事実が今明らかになる。福岡城研究の新しい動き・名島学校の新解釈・伊野皇大神宮の豊丹生家の系譜の解釈を試みた。

【目次】
第1部 黒田官兵衛(如水)の妹妙圓大姉(尼)
   (福岡市博多区妙円寺にて豊前一揆と妙円 ほか)
第2部 備前と筑前の浦上氏
   (浦上貞雄氏(浦上静治の曾孫)の系譜中世から近世の浦上氏 ほか)
第3部 備前と筑前の小河氏
   (『小河氏系図』福岡県筑紫野市歴史資料館蔵)
   (鷲尾氏から小河氏へ『小河家系譜』(広瀬文庫) ほか)
第4部 福岡城と名島城
   (足利学校と名島城小早川隆景(三の丸城代浦宗勝)小早川隆景と名島学校 ほか)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ある方からご恵贈いただいた本である。筑前の浦上氏について詳しく書かれている。
肥後細川家にも浦上家があり、何らかのつながりがあると推察しているが、先祖附等からしても決定的なものがみうけられない。詳しく読み込まなければならない。

 赤松氏・黒田氏との係わりを知る上での佳書である。

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証言本能寺の変 史料で読む戦国史

2010-06-17 08:19:42 | 書籍・読書
証言 本能寺の変―史料で読む戦国史
藤田 達生
八木書店

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【本の内容】
従来の常識・通説に左右されることなく、「本能寺の変」を史料に基づき検証!本能寺の変研究を、織田政権論の重要なテーマとして位置づける。

【目次】
プロローグ—明智光秀は逆臣だったのか?
第1章 信長の西国政策
第2章 天下統一の最終段階
第3章 「安土幕府」の時代
第4章 本能寺の変
第5章 太閤と神君の神話
エピローグ—信長スクール

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光尚十歳の歌

2010-06-16 20:21:03 | memo
 寛永十一年御六様御詠というものがある。光尚のことだが御年十歳である。

  きのふまてさハなかりつる萩のはも
         そよきに秋をしらせかほなる

 我祖母の実家狩野家の祖、狩野太郎右衛門入道是斎梅弓江「御見せ被下候御詠」と綿考輯録は記している。
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細川家家臣・中根氏・・4

2010-06-15 18:08:34 | 歴史
 4月18日のブログ「細川家家臣・中根氏・・3」で、ピエールさんからお教えいただいて、中根氏に係わる略系図を書いた。今日はそのブログに東京の山田さんからコメントを戴き、国立公文書館に「旗本・中根氏の史料」がある事をお教えいただいた。
そして「上田新兵衛(細川家家臣・上田家)」が中根氏の一族である事が判明した。
これは大きな驚きであると共に、私は大きな間違いをしていたことに気付いて青くなってしまった。

 2009-09-13 のブログで 「裏」なし、上田氏のこと を書いた。
詳細は上記ブログをごらん戴くとして、「細川家家臣上田氏には三つの流れがある。その家紋を調べていて其の出自は大友一族だろう」と推理したのである。

       新兵衛家      杏葉
       太郎右衛門家   杏葉 日の字
       久兵衛家          日の字 (わが高祖父の家)

 今日お教えいただいた上田氏=中根氏とすると、その家紋は「抱茗荷」である。つまり上田新兵衛家・太郎右衛門家の家紋は「杏葉」ではなく、大友一族でもないという事になる。大失敗をしてしまった。9/13分のブログを消去しようかと思ったが、少し言い分けを書いてそのままにすることにした。原因は「杏葉紋」と「抱茗荷紋」の見分けがつかなかった事によると・・・(肥陽諸士鑑に書いてある家紋は直経5㎜にも満たない)

 わが高祖父の家上田氏が、新兵衛家・太郎右衛門家に連なるのかどうか今後の課題だが、ちょっと目先の霧が晴れたような気がする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 +--平忠盛---清盛
 |                     忠良
 +--平忠正---中根忠雄・・・・・+---忠貞----○----市左衛門・・・・・・・・・→細川家家臣・中根氏
                    |               正吉
                    | +---織田信長
                    | |
                    | +---織田信照
                    |        ↓家康命、松平信康臣、本多忠勝臣
                    +---正秋===忠実---可古---+・・・・・・・・→岡崎藩家老・中根氏
                     三方原戦死             |
                                        +--可勝・・→細川家家臣・上田氏
                                          上田新兵衛
    ■ 平忠正 ja.wikipedia.org/wiki/平忠正
    ■ 山田様のコメント
     国立公文書館の「略譜」(PDF可)で画像を見る事が出来ます
    (請求番号:156-0017 冊次:11 その中で開始コマ67から)

      平姓 中根 高六百石 家紋 茗荷 蝶
      二俣の城主 中根伊賀守正秋養子
      初 越中守 新兵衛尉 可賢(初 信照)○死
     (多分 主 本多忠勝に殉じた…)
      子に可古(初 清正 初 左源次)
      更に その子に可勝(上田新兵衛)がおります
      この方は細川越中守家臣となる… と

ピエールさん、山田さんに感謝。
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梅雨に入り候様子の由に候へとも

2010-06-14 17:08:52 | 徒然
 熊本は昨日梅雨入り(した模様?)そうだが、時にはピーカン状態でほんまかいなと思ってしまう。4日続いた30℃越えも昨日は一段落、予報によると今日は夕方から雨などと報じているが・・気配なし。
八代松井家松濱軒や玉名の高瀬川の菖蒲が見頃ですときいて一週間ほど経つ。

   松濱軒 www.yado.co.jp/hana/kumamoto/syohinken/syohinken.htm
   高瀬川 city.tamana.lg.jp/.../midokoro/hanakikou/takasehanashobujouhou.html

 あちらこちらからあじさいの花のたよりが聞えてくるが、カラカラ状態ではあじさいも引き立たない。我が家の「がくあじさい」もはや枯れかかっている。最近花に水をやるのも億劫になりつつある爺としては、ざっと一雨お願いしたい。
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細川三斎―茶の湯の世界

2010-06-14 13:20:14 | 書籍・読書
細川三斎―茶の湯の世界
矢部 誠一郎
淡交社

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【本の内容】

「利休正統」をつらぬく「強き」茶風。利休七哲の一人であり、剛勇の気格と父・幽斎ゆずりの教養より生まれた三斎の茶の湯を探る。

【目次】

第1章 三斎研究史
第2章 若き三斎(忠興)の茶の湯
第3章 家老松井康之の茶の湯
第4章 千利休との交流
第5章 徳川将軍家と三斎(忠興)
第6章 三斎の茶の湯の大成

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「利休百回記」を読んでいる。天正十九年閏正月正月三日の昼のお客は松井佐渡守である。解説を読むとこの人物について次のように記してある。

 【松井佐渡守とは忠次のことでであらう。本姓松平氏であるが、天正三年松井を許された。利休がこの月秀吉の勘気を受けて堺に下ったが、その時下堺の使者になったのはこの佐渡守であった。】

 「ご冗談でしょう」と思いながら、また利休や松井佐渡守にかかわる本を読まなくてはと思ってぐぐっていて見つけた本である。

 
コメント (1)
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読下し「正保四年五月漢朝ホルトカル國ヨリ舩来朝」-- 2(了)

2010-06-14 08:10:08 | 歴史


一、同廿二日政所ヨリ被仰渡候ハ彼黒舟
   宗門勧ニハ不参加勢之儀■■
   参候ニ付帰國被仰付候間左様ニ
   相心得候へノ旨被仰聞候事
一、同廿四日彼黒舟物音ヲ不仕シツ
   マリ常ニ様子替候間不圖石火矢
   ナト打申儀も可有之候間油断無
   之様ニ御觸候事
一、同廿七日
   一番 益田弥一右衛門・谷忠兵衛    
   二番 神足庄五郎  ・長尾伊織
   三番 山田新五郎 ・竹原庄大夫  
   四番 陳佐左衛門 ・的場勘平
   五番 松山兵左衛門・井関左近右衛門
   六番 横井牛右衛門・中路内蔵之助
   右セき舟ニ乗候衆二艘宛今晩より
   舟場之内へ御番相勤可被申候前日
   申ノ刻より明辰ノ刻迄被相勤御番代ニ
   参候衆ニ引渡可被罷帰候舟懸場
   之儀ハ最前御番被仕候衆へ可被相尋候
   以上
    七月廿七日     長岡勘解由
一、八月朔日黒舟御返シ被成候ニ付加ひ
   たんへ御使者被遣候間石火矢打
   申事可有之間騒申間敷政所より
   被相觸候事
一、同三日夜ニ入川口ニ居申候舟懸リ直シ
   候事
一、同日黒舟帰帆被仰付候浦々口舟
   懸リ仕候共陸地へ上ケ申間敷由被伝觸候
   事
一、同四日黒舟へ兵粮水被遣候事
一、同五日早天ヨリ黒舟出舩仕候様ニと
   被仰付候間舟ノ懸リ様先手其
   心得可有候若黒舟高ホコヨリ
   内ニテ石火矢ヲ打申候ハゝ御乗取
   可被成候間其心得可仕由黒舟碇ヲ
   繰候時分ハ夘ノ上刻ニ而御座候
   申ノ下刻高ホコ迄罷出候事
一、黒田殿西泊戸町より被罷出向合ニ
   舟ヲ被備候事
一、隠岐守殿も舟ヲ備諸事御支配
   之事
一、同六日黒舟無異儀出舟仕ニ付監物
   勘解由石見弥二右衛門政所江罷出候事
一、同日明日木鉢へ舟ヲ御入被成候何茂
   舟数之儀ニ候間口論無之様可相心得
   之由御觸
一、同七日木鉢へ舟入申候替之儀無之事
一、同九日黒舟長崎より十五里沖へ走出候
   由政所へ注進有之事
一、同十日監物勘解由政所へ被罷出候へハ
   隠岐守殿攝津守殿織部殿三郎左衛門殿
   御列座ニ而被仰候ハ今度被入御情候
   儀舟橋之御忠節肥後守殿ハ何茂
   具ニ御物語可申由被仰候ニ付監物
   御請申上候ハ何ヲ仕上タル御奉公も
   無御座候處■所御意共有難
   奉存候由申上首尾能退出仕候
   事
一、同十二日ノ晩攝津守殿織部殿長崎
   御立被成候事
一、同十三日筑前守殿長崎御立被成候事
一、同十四日隠岐守殿長崎御立被成候事
一、同十六日監物舟ニテ何茂振廻被申候
   事
   従熊本被差向人数
一、一番備      長岡勘解由組共ニ
    亥ノ六月廿七日夜ニ入注進即夜丑ノ刻
    出陳七月朔日辰ノ刻長崎着

            沼田十五郎
    御番頭            同
     藪 図書       筑紫左近
  三十挺            同添頭
   山田新九郎      竹原庄大夫
  三十挺            同添頭
   木戸半左衛門     野田安兵衛 
  廿挺             廿挺
   横井牛右衛門     齊藤又大夫
  廿挺
   中路内蔵之助     丸山左京

   一尾喜内       渡部市十郎
    外科
   石川松庵       平野弥二右衛門
    石見組
     氏家志摩       楯岡孫一郎
                   監物組御番頭
     三宅藤左衛門     谷 内蔵允
    監物組御番頭
     藪 市正       藪 小吉
       右之分者勘解由下知可仕旨御印

一、二蕃備      長岡監物組共ニ
    亥ノ七月七日出陳
    同十日長崎へ着     米田与七郎
    人持             御番頭
     志水新之允      谷 内蔵允
    御番頭            廿挺
     藪 市正       谷 忠兵衛
    廿挺             同
     陳 佐左衛門     神西金右衛門
    同              同
     山崎太郎左衛門    小崎五郎左衛門

     尾池傳左衛門     三宅藤右衛門

     西山八郎兵衛

一、三番備       清田石見組共ニ
    亥ノ七月十日出陳    同 味右衛門
                   御番頭
     南条大膳       氏家志摩
    御番頭
     松山権兵衛      牧 平左衛門
    三十挺            三十挺
     長尾伊織       都甲太兵衛
    廿挺             廿挺
     井関左近右衛門    松山権兵衛 
    同              同
     的場勘平       清成武右衛門
    十挺             十挺
     高尾求馬       中川梶右衛門
    
     出田左兵衛      清田角左衛門
    廿張
     續 平右衛門     澤村権次
    御醫師            御醫師
     竹原道印       北村宗雲
    五拾挺            五拾挺
     奥田権左衛門     伊丹治左衛門

     朽木内匠       長岡玄安

     三池善大夫      細川刑部

一、四番       小笠原備前組共ニ
   亥ノ七月出陳
     松野右京       佐久間半之允
    御番頭            御番頭
     小笠原民部      填島半之允
    三十挺            三十挺
     益田弥一右衛門    白木貞右衛門
    廿挺             添頭
     牧 丞大夫      平野太郎左衛門
    廿挺             十挺
     上田太郎右衛門    岡部庄之助
    十挺             添頭
     池永源大夫      矢野勘右衛門
    十挺
     小笠原又右衛門    尾池藤左衛門
    
     齊藤勘助       齊藤弥八郎
        御舟手
          村上七左衛門   同左平太
     
御人数合五千三百九十四人
御舩都合弐百三十八艘
    舟頭水主四千百五十人

 長崎ヘ遣置候衆
 石見組支配之替組ニ戻ル
     續平右衛門    奥田藤左衛門
      此両人ハ最初ニ被遣置

 速水助兵衛    渡部武右衛門
 明石源太夫    鎌田弥五左衛門
 寺本久太郎  御側足軽頭續ニ替ル 

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ゲット「細川忠興軍功記」

2010-06-13 21:54:12 | 書籍・読書
 今日オークションで「細川忠興軍功記」をゲットした。値段は・・内緒・・・・・
手元に届くのが待ち遠しい。
         
            『細川忠興軍功記』
              史籍集覧
              牧丞太夫 明治期刊 観奕堂版
              活版
              全一冊 

             【状  態】落丁なし 線引あり
             【 サイズ 】18.5×12.5cm
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読下し「正保四年五月漢朝ホルトカル國ヨリ舩来朝」-- 1

2010-06-13 17:46:58 | 歴史
    正保四年五月漢朝ホルトカル國ヨリ舩来朝


一、正保四年丁亥六月廿四日肥前国長崎之
   沖ニ黒舩二艘見へ申由長崎ヨリ申来ニ付
   續平右衛門奥田藤左衛門両人早速罷越
   諸事之注進可仕旨御家老中被
   仰付両人令渡海右二艘カリアン
   アルマタト云也
一、同六月廿六日彼黒舟二艘共ニ長崎之
   入口イワウ嶋ヨリ入津仕ニ付長崎政所より
   使者ヲ被遣何ノ國より何様之儀ニ而渡海

   仕候哉委細ニ可申上旨被仰遣彼舟御
   返事ニハ其地江着舟ノ上様子可申之由
一、同廿六日政所より重而使者を被遣鉄炮之
   玉薬上ケ申候而カビタンモ上リ候様ニと
   被仰遣候へハ御返事ニハ様子御座候間
   カビタン上り申儀も不罷成尤玉薬
   上ケ申儀も不罷成由御返事申
   上候事
一、右之通御返事申上候ニ付然上ハ兎
   角合戦可仕心得ト何茂御推量ニ付
   江戸へモ言上左候へハ江戸より御左右
   無之内ニ若彼舟歸帆之時ハ如何トノ
   御詮議ニテ近國ノ諸勢召寄候事
一、黒田筑前守忠之長崎御着直ニ政所江
   御出被仰候ハ當年長崎當番之儀ニ
   御座候ニ付頼申候黒舟御討果シ被成候ニ
   付近國江軍勢ナト被仰遣儀ハ御
   無用ニ被成可被下候彼ノ舟乗取申
   分ハ手前ニ而仕廻申儀ニ御座候若
   差支申儀も御座候ハゝ鍋嶋信濃守
   儀ハ連々相役之儀ニ而候間無隔心
   可申談候然共私當番之儀ニ御座候間

   鍋嶋人数も私裁判ニ被附候様ニ前以
   被仰渡被下候様ニと被申候へハ高力
   攝津守殿被申候ハ何茂讃談仕重而
   様子可申入之由日根野織部正殿御町
   奉行馬場三郎左衛門殿ハ兎角之儀
   不被仰候事
一、肥後勢六月廿七日夜ニ入可指出旨
   従長崎到来即夜丑ノ刻ニ長岡
   勘解由組ヲ被召連熊本ヲ出陣
   肥後(前)茂木浦江着岸夫ヨリ陸地ヲ
   行七月朔日辰ノ刻ニ長崎江着刻
   政所へ罷出候へハ早速一番ニ着仕候由ニテ
   首尾能罷歸候事
   此勢二千十五人船頭水主千七百廿六人合
   三千七百四十人
一、同五日近國ノ諸勢長崎ヘ大方馳集ニ付
   家老備頭を政所へ被召集テ馬場三郎左衛門殿
   被仰聞候者今度黒船御乗取被成候ニ付
   各存寄ノ行テモ候ハゝ無遠慮可被申
   上之由被仰渡候何茂御請ニハ何之
   存寄モ無御座候由被申上然處ニ寺沢
   兵庫頭殿家老並河太左衛門進出テ
   申上候者無遠慮愚存之旨可申上旨

   御意候へハ憚ヲ不顧乍恐申上候彼ノ
   黒船走出候瀬戸口ニ大綱ヲ幾筋モ
   張セ候テハ如何可有御座哉黒船走
   懸リ罷出候時此綱ニ帆ナトカゝリ候ハゝ
   其支配仕候ニ連滞可仕様ニ被存候
   左候ハゝ其内ニ乗取申タヨリニモ可
   成申哉ト申上候得者立花左近殿
   家老十時三弥申上候ハ太左衛門申
   上分尤ニ奉存候旨申上候其外ハ
   兎角申人無御座候織部殿被仰候ハ
   一段尤之様ニ被存候とくと遊讃談
   重而可申入之由被仰何茂退出之事
一、同六日長崎瀬戸口ニ大綱ヲ御張セ可
   被成由御觸在之叓
一、同日被仰候ハ土用過候間風替リ
   候ハゝ黒船走出候波モ可有之候成程
   急キ大綱出来次第早張セ候様ニと
   被仰渡候事
一、黒船楫帆ヲ直候肥後守舟場近所
   にて候間左様ニ相心得候様ニと被仰聞候
   勘解由御請申上候ハ晝夜油断
   不仕罷有候由申上候事

一、同七日大綱出来仕候ニ付川口高ホコニ
   大綱張セ申由平野弥二右衛門政所江
   罷出申上候事
一、同日跡ヨリ被差出人数着舟仕候ハゝ
   最前舩懸リ仕候所へ懸候様ニ沙汰可仕旨
   被仰渡候事
一、松平隠岐守定行為 上使國本去ル
   三日罷立只今當着候由使者を以
   被仰達候事
一、同八日渡部作之允拵上候木形二ツ巻
   上ケ申道具列續平右衛門奥田藤左衛門
   持参仕指上申候事
一、同九日長岡勘解由政所へ被召寄
   織部殿被仰候ハ躰ニヨリ黒船
   焼討ニ被成儀も可有之候焼草之
   用意潜可仕シク旨被仰渡候事
一、長岡監物儀去ル七日熊本出陣夜前
   カハ島近着舟之由ニ而同九日宇野
   五郎左衛門ヲ舟場為見繕先ニ差越候
   叓
   此勢三千三百七拾九人舟頭水主
   二千四百廿四人都合壱万千三百人


一、同十日監物儀長崎江着舟政所へ罷出
   此間他家ノ家老中罷出候ハ陳
   羽織ニ而罷出候處監物儀ハカキ
   帷子ニカキノモシ肩衣ニ小脇差ニ而
   イカニモヒヤシタル様子共ニテ罷出候
   御三人衆モ内々被聞召及タル監物
   ナレハ他ニ異ナル御挨拶共ニ而攝津守殿
   被仰候ハ今度黒舟之儀従江戸
   無御下知内若自由ヲ働候時
   此方ヨリ心侭ニ支配仕埒之儀此間
   諸家家老中備頭衆迄寄合何とそ
   存寄候ハゝ被申聞候様ニト申渡候處ニ何茂
   存寄無之由然處寺沢殿旅家老
   並河太左衛門川口ニ大綱ヲ張候ハゝ彼
   黒船走出候時帆ナトニカゝリ其
   支配ニ遅滞可有之候様ニ被存候其内ニ
   乗取可申たよりニモ成可申と申分
   有之何茂尤ト一決シ大綱ヲ張セ申候
   此外ハ何之行申人無之候此度之事ニ
   候得者何とそ可然行モ候ハゝ少ニ而も益
   多キ方ニ決定仕度事共ニ候者必
   無伏蔵被申聞候へト御三人衆無御隔心

   被仰懸候ニ付其時監物申上候ハ人
   カマシキ御尋ニ付御請ニ當惑仕候然共
   對感朝御為ツクノ儀ト申再ヒ
   御意之上ハ是非憚ハ不顧愚存之
   旨申上候此間舟橋之御讃談なとハ
   無御座候哉ト申上ケレハ三郎左衛門殿
   被仰候者舟橋之儀聞及ハ仕候得共
   終ニ見申タル儀無之如何様ニ拵候も
   不存如何トアレハ監物申上候ハ大船
   ヲ並へ其上ニ角ノ木ヲ敷並へ其上ニ
   大板ヲ並ヘカスカイニテカタメ申候へハ
   此上ヲ馬ヲ乗通り候へ而も不苦又ハ
   舟栖楼を上ケ彼舟中ヲ見下シ候様ニ
   仕候是ヲ舟橋共舟櫓共申候土用
   過候へハ風替リ彼舟順風ニ任せ走出候を
   大綱ナトニテ止申儀成可申や右舟
   橋ニテハ黒舟何程走出度存候へ而も
   通リ申儀成申間敷旨申上候へハ御三人衆
   被仰候ハ扨モ慥成行カナ此上ノ行ハ
   有之間敷尤至極成儀と御感不
   大形候然共舟橋拵之大舟材木等俄ニハ
   當所ニハ有之間敷候此障いかゝとアレハ

   監物申上候ハ肥後守一手ニ被仰付候ト
   テモ成儀ニ而候然共歴々是ニ被相詰
   事ニテ候間高ニ應シ間数町場割ニ
   被仰付候ハ々如御好一日ニも調可申候
   若加様之御用も可有之哉ト肥後守
   存寄大舟材木等差越置候へハ唯今
   被仰付候トテモ少モ滞申儀無御座候
   若又肥後守一手ニ被仰付御事ニ而
   候ハゝ少々ハ不足可有御座哉左候て
   其不足分國元ヨリ取寄申間
   時日被差延被下候ハゝ是以支ハ
   無御座候御急用之御事ニ候へ者近国
   ノ舟ヲヨセ材木ハ當町海邊ノ町屋を
   崩シ用ヒ此場相済候上ニテ町屋
   作事ハ如前々肥後守方ヨリ新敷
   申付可遣候大國ヲ被下置候ハケ様之
   時節御奉公ヲ相勤申コソ大幸
   成儀ト悦ヒ勇ンテ申上ケレハ
   御三人衆扨々尤至極成申分心地
   ヨキカナト御感不斜シカラハ為
   上使松平隠岐守殿在陣候間一往讃
   談之上ニテ重而被仰聞者旨ニテ

   首尾能監物退出其節立花左近殿
   家老十時三弥モ其座ニ有合右之様子
   一々承リ續平右衛門原城以来別而
   入魂故平右衛門ニ三弥申候ハ内々監物
   儀ハ承及候へ共今日初而逢申候舟
   橋之儀尤至極成儀ト感申由ニ付
   平右衛門申候ハ監物儀ハ御聞及モ可有
   之候大坂陳之節者大軍ヲモツカヒ
   其外度々合戦ニナレ申者故カやウ
   ノ小事ナトニアグミ申儀ニテハ無
   之ト申候へハ三弥モ尤之儀ト感シ申候事
一、同日政所ヨリ普請ニ馴タル足軽頭
   可指出旨申来木戸半左衛門谷忠兵衛
   罷出候へハ町年寄高木作左衛門所ニテ
   竹木何カノ割符惣中立合讃談仕候
   事
一、松平隠岐定行殿長崎へ御着舟政所へ
   御寄合二時斗御内談ノ上其後弥舟
   橋可被仰付旨惣御觸之事
一、同十四日御觸条々
一、黒舟ノ儀ニ付従江戸被仰出無之以前
   作法潜ニいたし加びたん気遣不仕様ニ

   可相心得事
一、黒田筑前守黒舟當番ニ付可為先陳
   事
一、加勢ノ人數下知なくして猥ニ無之様
   可仕事
一、不慮ニ黒舟かけ出候ハゝ乗取可申事
一、味方打出有之者物頭可為越度事
一、喧嘩口論停止之事
一、今度之逼留中人返停止之事
一、竹木猥ニ不可伐採事
一、押買狼藉停止之事
一、宿賃舟賃相對ノ所々相違有之
   間敷事
   右之通可相守者也
    亥ノ
     七月十五日  高力攝津守
              日根野織部正
              馬場三郎左衛門尉

一、同十五日清田石見備ヨリ先へ参掛居候
   事
一、同十六日未明ニ舟橋出来
   此瀬戸二百廿三間ノ内
   細川方請取

一、黒舟ニ黒田筑前守方ヨリ使を遣政所ヨリモ
   御目附ヲ被添候内藤儀大夫ト申者口上
   之趣筑前守先陳ニ而候従江戸左右次第ニ
   乗取可申候然共案内ヲ不申入候而も
   討果申間敷候前以案内ヲ可申入候間
   其節ハ互ニ出合合戦可仕候其内成程
   安堵仕舟中静ニ有之様ニ申遣ケレハ
   加びたん返事申候ハ御口上之趣得
   其意申候漢朝日本モ武ノ家ノ
   心意同前ノ儀ト感入候従江戸
   左右次第被仰聞候ハ出合候而可致
   合戦旨御返事申候事
一、舟橋出来ニ付攝津守殿織部正殿
   三郎左衛門殿松平隠岐守殿モ被出合
   御覧被成候節監物モ罷出候得者
   何茂被仰候ハ舟橋ト申事終ニ見申
   タルコトモ無之候此拵ニ而ハ黒舟如何
   様ニ存候共走出候儀者成間敷ト
   大ニ何茂御感被成候ニ付監物申上候ハ
   何茂様御意ニ叶大安堵仕候舟橋ノ
   諸々栖楼ヲ被仰付候而彼舟ノ内ヲ
   見下シ候様ニ被仰付候而ハ如何可有

   御座哉と申上候へハ栖楼之儀可被仰
   付之由ニテ何茂御帰監物モ首尾
   能仕廻罷帰候事
一、監物被帰勘解由石見弥次右衛門ニ
   申候ハ黒舟之様子ヲ見申候ニ具足
   ナト着候而ハ大海之働成間敷候間
   味方ノ人数は具足ヲ着不仕様ニ可
   有沙汰候今度ノ働ハ黒舟ニ早乗
   移リ壱人ニ而モ早火ヲ付候ハ大功タル
   ヘシ尤大桶ナト沢山ニ用意可然
   之由披申談候事
一、セいたと申候而幅六寸長八寸程有之
   板ニ四方ニ緒ヲツケヲヒ候前にユイツケ
   申やウニト是は海上ニテ能ウキ申
   物ノ由監物右之通申付候事
一、監物勘解由石見弥二右衛門政所へ一同ニ
   罷出申上候ハ今度黒舟御乗取候ハゝ
   御當番ニ付一番黒田様二蕃鍋嶋様
   三番肥後守ト被仰渡候然共肥後守
   人数備居申候陳場ヲ黒舟走通リ候
   時一番黒田様ニ而候御合戦被遊候様ニと
   見物ハ成間敷候此方備居候陳場

   走通リ候ハゝ黒田様不申上踏潰シ可
   申候御軍法之儀大事ノ御事ニ奉存候
   前以奉窺之由申上候へハ御三人衆
   被仰候ハ尤成尋二候肥後守殿御陳
   場ヲ黒舟走通リ候時ハ打果被申
   可然之由埒明申候三郎左衛門殿監物ニ
   被仰候ハ御用之儀有之候間跡ニ残
   居候様ニと被仰付候ニ付跡残り仕候へハ
   三郎左衛門殿被仰候者躰ニヨリ黒舟
   ヲ焼討ニ可被成候乗取ニ成候ハゝ人数
   大勢討死可有之候如何被存候哉
   了簡ノ程承度ト被仰候ニ付監物
   申上候ハ御懇意ニ而御尋ノ上ハ推参
   ヲ不顧愚意ノ程申上候先日黒田様
   彼舟ヨリ御返事申上候通承及
   候へハ加びたんハ能大将カトゝ被存候
   且又異國舟モ數艘入津仕居候
   加びたん日本へ合戦ノタメ二艘参
   候處ニ日本人合戦難成火攻ニ
   仕タルナト異國帰帆ノ唐人共
   語申コトモ日本ノタメ無本意儀ニ
   奉存之由申上候へハ何茂尤至極ニ

   御三人衆被思召由ニテ焼草無用ニ可
   被仰付ニ御讃談相極リ又監物申上候ハ
   国元に居申候士共ノ躮親ニ懸リ居申候
   者共今度之儀ニ付皆々勇ミ参
   居申候舟場ヨリ内へ舟を入候様ニ
   御断申上候ハゝ相叶可申モノヲト申
   私儀ヲ叱申候何とそ舟橋ヨリ内へ
   舟ヲ御入サセ被下候様ニと申上ケレハ
   攝津守殿被仰候ハ若キ衆此時勇ミ
   申ハ尤之願ニ而候致讃談重而様子
   可被仰聞ノ由ニ而首尾能退出
   申ノ下刻監物罷帰候而勘解由石見
   弥二右衛門ニ右御尋之趣御請之様子一々
   物語被仕候事
一、同十九日隠岐守殿御舎弟松平美作守殿
   御嫡子河内守殿長崎へ御着之事
一、隠岐守殿早舟荷舟共ニ五十五艘参
   其後右御番所御越之節拾艘都合
   舟数六拾五艘参候人数ハ五千参候由
   家中衆申候へ共舟数を以相考候へ者
   五千人迄ハ有之間敷由申候へ者尤之由
   監物も被申候事
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たごとの月

2010-06-12 18:02:48 | 徒然
 永青文庫に西垣勘四郎作の刀の鍔「田毎月図鍔」というものがある。「たごとの月」といえば、歌川広重の浮世絵「更級の田毎月」で有名だが、この刀の鍔は小さな画面に見事にこれを表現している。その製作年は宝永五年だとされるから、広重の浮世絵の寛永時代からすると150年ほどの時代差がある。歌にもよまれている「たごとの月」だが、勘四郎はそれらの事をよく承知の上での作品である。八代未来の森ミュージアムで展観したとき、しばらく釘付けになった事を覚えている。

 よくよく考えると勘四郎の鍔や、広重の絵のような現象は有り得ないのであって、田一枚一枚に映る月を見る為には相当な時間を費やし、あちらこちらに動き廻らない限り見ることは出来ないであろう。いろいろぐぐっていたら、次のようなサイトがあった。諸氏もこれをご覧になれば納得されるであろう。
         www32.ocn.ne.jp/~gaido/fusigi/tagoto.htm
コラム「田毎の月が見たい」 homepage3.nifty.com/hosimi/koramu11.htm で紹介されている月も上のサイトで紹介されている現象によってである。それでもこんな月、見てみたいものでは有る。

 あるお宅の家紋は田の字を45度起した形である。紋の名前を知りたくていろいろ調べている内に筋違いの方向へ迷い込んでしまった。
        
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沼田十五郎と丸山左京

2010-06-11 08:49:40 | 歴史
 先にご紹介した「正保四年ポルトガル船長崎に来航」に関係する文書の、長岡勘解由にかかわる記述に沼田十五郎・丸山左京の名前があった。この二人の名前が登場する文書は大変めずらしい。
ここに登場する長岡勘解由とは沼田延之のことだが、十五郎とは嫡男の延武のことのようだ。沼田家は延之の跡は二男延将が継いでいる所を見ると、若くして亡くなったのであろうか。
また同組に丸山左京の名前を見つけていささか驚いてしまった。中院中納言通勝の孫にあたり、細川の血が入っている。そして沼田延元の婿殿である。その後は嵯峨氏を名乗り細川家家臣として明治に至っている。

細川幽齋---+--忠興
        |
        +---千
            ∥
中院通勝---長岡与九郎孝以--------丸山左京進一信(孝方)・・・・・・・・・・・→嵯峨氏
       四男・中院益丸 享年二十一歳       ∥
                       +---千代(正受院)
                       |
               沼田延元---+---延之---+--十五郎延武
                                |
                                +--延将・・・・・・・・・・・・→沼田氏
         
   参考:丸山左京進 ○○石 御馬廻衆 (肥後御入国宿割帳)
            三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・左京
                 
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ショック

2010-06-10 14:21:58 | 徒然
 我が家の「デジタル複合機」が壊れてしまった。スイッチを入れると「ぴーつ・ぴーつ・・・・」と連続音がけたたましい。暫くするとエラー表示が出てある記号が表示された。修理センターに問い合わせるとFAX基盤の取替えが必要だという。約70,000円するのだそうな。作業料も加えると80,000円を越す・・・ああああああ

 コピー・プリント・ファックスを全てこなしてくれた器械だから、・・・参ってしまった。

「捨てよう」と決心した。もう業務用は必要ないし、さしあたって必要なプリンターは別途PCに繋げているし・・・
「買い替えよう」と決心したら、私の部屋の窓からみえる「コジマ電器」が手招きしているように見える。
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正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 2

2010-06-09 08:10:24 | 歴史
敵舟是を見て無調法ニテ渡海誤り申候、向後全参る間敷候、無事ニ帰帆被仰付被下候様ニと御詫言すれは上意の下る迄奉待へしと也、扨も此三階櫓と申ハ忠利公御在世の御時、異国口なれハ自然軍御用之事も有と思召、合紋尽しにして河尻御茶屋・御舟蔵のつしに上させ被召置つ、是のミならすろを壱万丁矢野吉之允と申御船頭被仰付作らせ、是も右之所々ニ上ケ置せ給ふ、嶋原・天草両嶋の土民一揆蜂起の砌御国荷船ハ不及申、旅より商売船来るを被留置、水夫・加子ニ件の櫓早舟同前にして御用ニ立られ候、又此度も御用ニ立られし名将の被成置し事共、割符を合様ニ御用ニ立候キ、妙ならすや、聖ならすやと奉感、且又がりあん御詫言相叶、後年二度不参候様ニ、若万一参候ハゝ、即刻刑伐可被仰付旨ニ而、かりあん運を全して帰帆仕る、事発して右之諸具岡又兵衛請取へし渡へしと下知給ふ、又兵衛熊本より仕出し候根目録に引合請取るへしと云、作之允左様のわけ不存、切折たるも有、潮ニひかれて流レたるも有とかや、手形らしき物もなけれバ不存と云、夫ニてハ何を証拠ニ請取へしや、請取らすと云、然らは窺とて相窺、監物殿一陳の御用ニ立候得は、皆古物也、有の儘ニ作之允渡し次第ニ請取へしとの儀にて、右往左往ニ舟ニ取積、河尻へ相届る、請取しよつ沓ニては中々船橋も即時ニハ出来せましと、定而そこをかんかミてこそ存不寄、渡辺ニ御申付候哉、兎角大将ハ人をしる耳と古来申伝候、妙ならすや、於江戸も光尚公御威光かゝやきけると也、其初秋光尚公江戸より下国被成ける翌春、西国諸将参府し給ふ、何も召候て於殿中井伊掃部頭様を以、去秋長崎へ異国船入津仕候刻、早速人数を差出、御喜悦被遊て候、因茲彼地逗留中之兵粮被下之旨被仰渡候、御老人と申御先官ニ付而鍋嶋信濃守様有難奉存候、御前可然様ニ奉頼候由御受被仰上何も御平臥、光尚公御年若被成御座けるか、彼地ニ而人数ニ骨をおらせ申上ニ而、右之上意ニ御座候ハゝ至極有難可奉存候ニ、渡海仕たる迄の儀ニ御座候処、右之上意御受に答(当カ)惑仕候、兎角御前可然様ニ奉頼候由、そこにて掃部頭様肥後守殿御請之趣御尤ニ候、可達上聞之旨也、達上聞御気色の御由也、於殿中是沙汰殊之外何も感し給ふと也と云々 (了)
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正保四年ポルトガル船長崎に来航-- 1

2010-06-08 16:53:08 | 歴史
 現在正保四年の「ポルトガル船来朝記」を読んでいる。約40ページの文書だが、読みながらタイピングするという作業を、延べ一週間ほど続けてきた。相変らず綿考輯録の該当項を見たり、地図や関係資料を見たりしながらの作業で手間取りながらも、どうやら残り2ページほどに成った。あとは参加した主だった人たちの名前が並ぶだけで、読下しの苦労も無くゴールは目の前である。この文書は現地の状況の報告であり、事件の全貌が見えないが、綿考輯録は「或覚書ニ」として、実に要領よくこの事件の概要をまとめている。ニ回ほどに分けてご紹介する。

 ここでの出色は長岡監物の発案による海上封鎖作戦である。長崎の瀬戸口約400余メートルに船橋を設置し、結果この作戦がこの騒動を解決に導いた。

比は正保四年亥六月上旬、南蛮国よりかりあんとか申切支丹之大船長崎の湊に入津仕、自今已後商売舟日本渡海の御詫言申上候願之旨を申上る、御政所馬場三郎左衛門様より江戸江可有言上候、暫ク相待候へと御答、九州二嶋江早速人数を被指出、邪船弐艘不計帰帆不仕様ニ可有覚悟、御誅伐有なしの儀ハ江戸より可為御下知次第との御飛脚七月四日未明ニ到着す、光尚公御在江戸之御事なれハ長岡式部殿ニ御一門細川左京殿・細川刑部殿、御家老中・御備頭衆御寄合ニて即日未之上刻長岡勘解由手勢三百余ニ而熊本押出す、直組・下組諸者頭彼而の面々段々はせ追、同日亥の刻河尻ニ至る、同子之刻乗船、軍勢都合五千程とかや、二蕃貝ニ纜をとく、三番貝に押出す、折節追手の北風吹しほりけれは、同六日の晩景に長崎の湊に着舟す、諸国之船共はともづけニ懸る、御国船ハみたれ懸りにする、船数かそえられすとかや、元より鍋嶋信濃守様御当番御請持成れハ、御家老鍋島七左衛門はからひとして、深堀のせば戸八丁の所を弐尺廻りのと綱を以、東西の岸の松に碇からみ付、所々に大木のうけをつけ、敵船をさへきりとめんとの支度也、扨二蕃手長岡監物殿六千の人数を引卒して同七日ニ長崎江着船し給ふ、と其儘麻上下を着し、唯今到着仕候、奉窺御機嫌とや、三郎左衛門様早速御対面残暑甚候ニ堅固ニ早ク到着、御出歓入候、監物殿参上を御聞被成候と其儘諸国参陳之家老衆へ急報ニ被参候へと御呼使参る、何も早速参上御対面、誅伐可仕旨之上意下るとひとしく打果候手立、且又其内与風敵船出船可仕と押へ申ハと綱ニて弥丈夫ニ候哉、累年之被仰付と違背したる敵国候ハゝ、公義の御為大事之儀ニ候間、各存寄心底を不残委細ニ可被申と也、何も詞を出さす、ぎしとして被居ける

御政所被仰候は、監物殿事岐阜・関ヶ原・大坂夜討、同五月六日七日之防戦数度之分骨他ニ異して、第一名将忠興公ニ馳被申候へは卑下もならぬ事、若取逃し候てハ日域末代のかきんたり、上様之御為なれハ武略を尽されよと也、監物畏て人ケ間敷御諚の上は、愚存之趣可申上候、火急之儀ニ付手と綱之儀尤之儀ニ御座候(瀬戸口に大縄を渡すという事) 乍然邪船押而帰帆候はと綱幾筋御はらせ被成候共、乗沈め可申候、若船底ニさわり候ハゝ、船具を仕候刃物を以切はなち罷通り可申候、船橋を被仰付可然と也、御政所仰ニ、八丁之所を日数かけば可取切候得共、取切と見て被取籠、叶ハしと乗出し候ハゝ、手を可失と也、いや只肥後守一手二被仰付候へ、今夜不明内ニ取切り候而可懸御目候と也、材木ハいかに監物抑さへ被付候へは出来可仕候、若材木不便ニ候ハ、当所之町を取こハし、船橋出来之上ニてはや明日より前ニ不劣様ニ作事仕らせ遣可申と也、しからハ監物殿裁判次第、然共八丁を皆迄と申も余也、四丁を肥後殿御手へ、残る四丁を諸手二而懸渡され候へと也、御諚畏候とて各退出、監物元船に帰座有て渡辺作之允と申かせたる石火矢を呼、其方儀今夜中に四丁の所に舟橋を懸渡す材木・釘・かすかい諸具つかへざる様に心いつはひニ可相渡しと也、渡辺も誠に不存儀なれハ、あきれはて忙然たり、雖然夏の短夜不明内に四丁をかけ渡す、急用なれハ渡辺なに/\わたせ/\請取へしと諸手へさゝ波の磯のまさごをうつ風情、作之允船々ニ材木夫々の品々を材木ニくゝりつけ、帆柱所二立置而、てんでニ手柄次第とらしませよとよはわる、聞伝へ/\渡辺ニ届る迄もなくはひとりのことし、数万の材木・貫・平物・かすかい・縄以下おつとり/\懸わたす、猶其上に三階の矢くらを三ヶ所ニあげ、塀・板はりの所大杉原を以てはりたて候へハ白かべのことし、石火矢さま切てあれは、石火矢・大筒数十挺しかけける、当御手ハ不及申、残る四丁も諸手より夜の中にかけ仕廻ぬ、夜明けれは見物の諸万人群集してわたりとやめく、橋の上ニ幾所ともなく臼を持出、米をうつ、都五条ノ橋の上もかくやとみえてにきやか也
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