津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「旦夕覺書」 鳥--9(2/2)

2011-07-12 23:31:51 | 旦夕覺書

 口の過たる故にと度々十左衛門殿口に手をかけ縫ひ細め候へ當世にて勤候へと毎度暇乞に参候時分被仰聞候 然れとも若き時分より生れ付にて人前にても無遠慮思ふ事不残申ゆえ諸人にくむも尤と存候 右の通御目附申達候て舎人殿以の外立腹にて翌日江村節斎上御屋敷へ参候とて扨々能時分被参候 唯今芝えへ拙者を呼に遣可申と存候處に幸にて候 明日早々御用有之候間参り候へと上御屋敷に被参折節堀次郎右衛門小屋にて咄居候處へ節斎被参候て右の通被申聞候故次郎右衛門殿も何事哉と節斎に尋被申候へはとくとは不承候へ共拙者に向先日芝へ御供に参候時何そ不調法成る事候哉終に見不申程に舎人殿顔色替申候由拙者に被申聞候 拙者もこもつふしはつと存候徒記に次郎右衛門殿御申候は夫程舎人立腹の様子ならは思ひ當る事はなきかと拙者へ被申候故いや/\ケ様/\の事御座候御廣間の御目附より御聞被成候物と申候へは夫々扨々苦々敷儀にて候 随分/\申譯あらは能々申候へと次郎右衛門殿節斎も殊の気遣にて被申候 拙者儀は不及申最早明たる事新知拝領にて初て罷上り如斯の儀は天罰と極め鑓を持せ申事も最早是迄と存神以鑓もたせ急き参候
舎人殿中山九朗左衛門咄居申候へとも罷立候へ御用之儀有之傳右衛門呼寄候由にて次にて逢申し直に居間に参候へは是へ寄候へと御申候故寄候へは先日御廣間の前を木履にて通候由如何様の心得にて踏通候哉御申候故いつも妙解院へ御参詣の御供ふれに芝へ御寄被成候由觸申候へはそふりたけをも持せ申候へとも其前にの觸にも任せ直に御帰被成候と何れも存候てわらしの替斗持参候故ケ様/\と申候へは敷石の上にてはたしに成程に心付候はヽ其儘にて可参儀に又栗石の上にて踏申事はいかヽとしはらく物をも御申なく案し居被申候故少又寄候て申候は私儀今度新知被為拝領候て初て罷越候處に右の仕合兎角可申上様無御座候 

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予感

2011-07-10 22:24:50 | 徒然

 旦夕覺書を読みながらタイピングを続けてきたが、中だるみ状態である。傳右衛門殿の教訓めいた話にいささかうんざりしている。しかしながらこれは、山本博文氏の「男の嫉妬」にもかかれているが、ただ名誉のために生きんとする武士としての生き様のごく当然の日常のことなのであろう。そうすると「いささかうんざり」は大いなる反省をして、真剣に向き合わなければ成らないと思っている。
 中だるみは、体調不良と、暑さのせいだと修正しておく。
今日も今日とて、突然の夕立に見舞われびしょぬれになってしまった。あちこちのお宅で久しぶりの晴れ間を利用して洗濯物が満艦飾であったが、取り込む暇も無いような突然の大雨に慌てふためく姿があちこちにあった。
 古希爺にはちょっとこたえる夏に成りそうな予感がある。

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文鎮につば

2011-07-08 22:48:31 | 徒然

 最近オークションで刀の鍔に興味を持って眺めている。上等でこったものなどは関係なく、肥後拵えにぴったりなような、無骨な鉄の塊がよい。さしあたって錆があったりしていても、良い子/\と撫でさすっていると、そのうちには鉄本来の味が出てくる。

 最近習字に凝って、文鎮がいるなーと思っていたところだが、オークションを見ているうちに「刀の鍔」にしようと思い至った次第である。第一回目は惜しくもアウト・・・残念

 我が家の刀の鍔ってどんなものだったろうと思うのだが、押入れの奥にしまいこんだものを取り出すのも億劫である。しばらくは、アクリル製のぺーパーウエイト等で代用している。

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只今夏痩せ中

2011-07-07 23:45:40 | 熊本

 別にダイエットしているわけではありませんが、2キロほど体重がダウンしました。
この歳になっての体重ダウンはあまり良くありませんな~
体が時折揺らいだりして、これはちょっといただけません。
PCの前に座っても、指がうまく動きません。というより気力が沸かない気分です。
少々体力増強を図って、又頑張りましょう。 

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やヽお疲れ気味につき・・・

2011-07-06 23:25:59 | 徒然

 ある方曰く、「早く梅雨があけませんかね~」
「しかしその後は地獄の暑さがやって来ますよ」

一寸外出して車から離れたら、とつぜんバケツをひっくり返したような激しい雨である。
これが終日続いた、まさしく熊本は梅雨の真っ只中である。

車に帰るために雨中突破・・・帽子を被っていたから頭はぬれなかったが、ずぶぬれになってしまった。風邪を引きかかっているのか、頭痛がする。古希爺になっても行動は古希とは思わず動き回っていて、これがどうも行けない。歳相応の行動をしようと心を誡めている。

ややお疲れ気味につき、こんなことでお茶を濁して失礼します・・・・・・・・・

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旦夕・堀内傳右衛門とその一族

2011-07-05 22:37:30 | 旦夕覺書

 肥後堀内氏は家祖を安房守氏善としている。氏善は加藤清正に仕え、宇土城代などを勤めて慶長20年(1615)に熊本城で病没したという。墓所が宇土市三宝院にある。
没年については、サイト熊野学の熊野の歴史/略年表(近世)によると、「慶長十四年(1609)14.8.15 己酉 堀内安房守氏善、肥後国宇士(熊本県宇士市)にて死す 」等諸説ある。

    武家家伝-堀内氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/horiuti.html
    ウィキペディア ja.wikipedia.org/wiki/堀内氏善

  ---+--安房守氏善(新宮27,000石→加藤清正臣・宇土城代)
    |
    |    (1)     (2)
    +--半介---構之助---+==三郎兵衛     
             |    ‖------+===妙庵  
             +-----妙庵   |     ‖-----+--三盛----------------------------→(三曎家)
                      |     三盛  |
                                                          |       +--喜左衛門---+--喜左衛門-------→(謙太家)

                             |             |
                              |             +--傳右衛門-------→(傳内家)

                                                          |
                      +--八右衛門---------------------------------------→(角平家)
                      |
                                                          +--角之允-----------------------------------------→(軍蔵家) 
                                                          |
                      +--文右衛門---------------------------------------→(卓爾家)

                           
 肥後堀内家は六家を数えるが、上記略系図は「堀内家先祖附」「旦夕覚書」「堀内傳右衛門覚書」などを資料として作成したものだが、堀内家は女系の一族である事が分かる。氏善の甥(弟・半助子)構之助女・妙庵と、婿養子・三郎兵衛との間に三人の男子と一人の女子をもうけた。女が医家・三盛と結婚するが、この三盛の名前が「肥後入国宿割帳」に見え、堀内一族の消息の初見である。
 この当時構之助(1)、三郎兵衛(2)は池田輝政に仕えていたらしいが、それを証明するものに、「備前侍帳--500石・堀内構之助」「寛永10年岡山藩侍帳--300石堀内三郎兵衛」というものがある。(ろんがいび:堀内伝右衛門の家系と親族より引用)

 つまり堀内三盛が、義弟三人を肥後細川藩に推挙したのではないかと考えられる。ちなみに角之允の召出は、先祖附から寛永18年である事が分かる。

 赤穂浪士の接待役を勤めた堀内傳右衛門は、三盛の次子・喜右衛門の子である。赤穂浪士にかんする記録を書き残し、赤穂浪士研究の貴重な資料と成っている。
面白いのは六家全てが200石を頂戴している事である。

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私九州ジゴロウのB型です

2011-07-05 12:53:51 | 旦夕覺書

 防災担当大臣がやめましたね~、当然のことでしょうが菅政権もいよいよいけませんな~。
被災者の皆様には神経を逆なでする発言で、皆様お怒りでしょうが、九州のB型人間に対しても失礼な話ですよ。政治家って本当に発言が安易ですね。直情径行なタイプだといいたかったのでしょうが、人の気持ちを慮る気持ちが欠けていますね~

 皆さん・・・九州のB型人間は良い人ばかりですよ(私を含めての話ですから・・)

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購入予定は無いのですが・・・

2011-07-04 23:11:43 | 書籍・読書
                織豊期の茶会と政治
 
                    思文閣出版

 お茶の不思議さとは、まさしく政治の道具であったことである。
地元熊本で10年ほどお茶のお稽古をしたが、今ではお手前はすっかり忘れてしまっているが、いろんなお茶の作法を記した文書に出くわすと、心にふつふつとたぎって来るものがある。
茶会記などを読むと亭主と客人の間でどのような会話が成されたのだろうかと考えたりする。
随分生くさい会話もあったのであろう。茶道が今日あるのは、まさしく織田・豊臣氏によってであるといって過言ではない。

 この本は一寸高い。購入するにはちょっと躊躇する。しかし魅力的だなと思い、ちょっとどこかの図書館からお借りして拝見しようと思っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本の内容

信長の茶会の場を通して,「大名茶湯」という中世武家社会で発展していった茶湯の歴史を解明。(歴史図書総目録より)

信長の茶会の場を通して、「大名茶湯」という中世武家社会で発展していった茶湯の歴史を解明。

目次

第1部 信長・秀吉所蔵の名物の歴史的背景(秀吉書状に見える「御茶湯御政道」の再検討
名物茶器の史的変遷
織田信長による名物蒐集
豊臣秀吉による名物蒐集)
第2部 織豊期における座敷飾りの展開(信長茶会における名物室礼の性格
名物室礼の奉行—松井友閑の役割
豊臣政権の確立と「ゆるし茶湯」の終焉
織豊期の座敷飾りと「大名茶湯」)

著者情報

竹本 千鶴(タケモト チズ)
1970年神奈川県生まれ。1993年國學院大學文学部史学科卒業。2004年國學院大學大学院文学研究科日本史学専攻博士課程後期修了。博士(歴史学)学位取得。現在、國學院大學文学部兼任講師 

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梅雨いまだ明けず

2011-07-04 13:22:02 | 熊本

 ここ二三日随分風が強く、小降りの雨がふりおかげで気温もそう上がらず助かっています。
クーラーも止めて窓を開けて風を通すにも、少し強すぎてカーテンが大乱舞しています。
南九州の梅雨明けから数日たちましたが、熊本はいつになるのでしょうか。
あちこちの田んぼも田植えもいよいよ、終盤といったところのようですが、今年は水の心配は無く秋には良いお米が取れることでしょう。

 こんなことを書いていても、やはり東北地方の煙害にあっている田んぼや、放射能の影響がある地区など田植えをしたくても出来ない皆様の事を思うと、そうそう喜ぶことも出来ませんね。別段私は農家ではありませんが、やはりこの時期水が張られ青い苗が風に揺らいでいる風景は心和みますねー。まさに日本の風景です。東北地方にも早くこんな風景が取り戻せるよう祈るばかりです。

追記:   22:54
ここ三時間ほど強烈な雨が降りました。洪水警報も出たようですが・・・解除になったのかなー? 
今晩中降るのでしょうか。水害トラウマを持ち合わせている私としては、余り気持ちよいものではありません。又風がうなりをたてています。早く上がって欲しい一方、途端に強烈な暑さが到来することに成り・・・・いずれにしてもこまった季節ですね~ 

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「旦夕覺書」 鳥--9(1/2)

2011-07-04 13:08:46 | 旦夕覺書

我等は十四より馬を乗習ひ申候 其刻十八日には毎月初瀬へ参候 老父被申候は何と存参候哉と被申候時馬を能乗り落不申怪我不仕様にと拝申と申候へはいや左様に我身の事はかり拝し申さぬ物にて候 頓て御入國被成候へは御目見させ可申候 左候へは無足にても殿様御家来にて候 神前にては先殿様御機嫌よく御繁盛被遊候様次には両親兄共息災に居申様に其次に我身の事を申拝し候物とおしへ被申候 唯今も奉存涙を流申候 尤成る事幼少より如斯おしへ被申候 其志を各にも能合點可被仕候 我等の如く幼少の時分より殿様を本に仕拝し申候 其心御家来は何も同前にて御座候 幼少より利發にて親の教を請す生れ来たる衆も可有之哉 乍去拙者同年位の侍中上下ともに拙者を不存衆無御座候 尤十歳はかりの時分より拙者は老父召連候て同姓八右衛門角入本書書置文左衛所へ毎度参候 屋敷たから町高田原手取三ヶ所今は替り申候 其時分御花畑の辻番所にて夜中にても冬は頭巾をぬき申候て頓て御入國被成候へは侍中是にて下馬仕候 頭巾も同前とておしへ被申候 如斯幼少より色々おしへ被申候へとも生れ付あしく心懸も薄く我身に覺へ節々誤り多く年寄候て思ひ出す事のみにて候 新知被為拝領御供にて江戸へ参り候年より初て上御屋敷へ被成御座候 四十年前迄は芝御屋敷に被成御座候上御屋敷より東海寺妙解院に御参詣直ニ芝へ御寄被成御供衆に御料理被下候 給申候て御廣間の次帳付共居候所に而たはこ給居候へは佐分利再見より小屋へ参候て御國茶申付候給候へと被申越候故得其意候と申草履取呼候へはわたし計持居申故木履を借参り候へとて奥村久左衛門小屋へ遣候て借参り候故其儘御玄関前栗石の上踏通り敷石の所にて二十年前思出先年三田八幡の御祭禮御門にて御覧被成候徒木に爰はうすへり敷候て御歩行被成候所と心付はたしに成候て通又木履にて参候 御廣間御番の内に御横目結居申候 何も御小姓組にて候 惣躰拙者事は御奉行御目附共に皆々憎み壱人も拙者をかはゐかる者無之候

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御代々様御参勤御帰国 (11-了) 齊護公

2011-07-03 06:15:31 | 歴史

齊護公

一、文政九年五月十三日御家督後初而御暇被仰出 同十五日御礼 同廿五日江戸御発駕 東海道御旅行
  六月十二日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同廿七日熊本御着
一、同十年三月四日熊本御発駕 従鶴崎御乗船 室湊より御上陸山崎通御越 四月朔日伏見御着 美濃路
  東海道御旅行 同十九日江戸御着 同廿三日上使 同廿五日御礼
      今度初山崎通御越 伊勢路被遊御旅行筈之処 江戸御参伺之公家衆御帰路 宿駅
      差支 美濃路御通行 跡達御届
一、文政十一年四月十九日御暇被仰出 同廿二日御礼 同廿八日江戸御発駕 東海道御旅行
   御風気ニ而蒲原宿江中三日御逗留阿部川満水ニ而府中宿江中五日御逗留
  五月廿五日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月十三日熊本御着
一、同十二年二月廿八日熊本御発駕 鶴崎より御乗船 室路御越 三月十三日大坂御着 東海道御旅行
  四月三日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
一、天保元年 文政十三年改元 四月十三日御暇被仰出 同十五日御礼 同廿七日江戸御発駕 東海道御旅行
  五月廿四日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月十一日熊本御着
一、天保二年三月廿三日熊本御発駕 従鶴崎御乗船 室路御越 四月九日大坂御着 東海道御旅行 同廿八
  日江戸御着 五月十三日上使 同十五日御礼
      去年関東筋川々御普請御用御勤付 今年七月中可被遊御参府旨被仰出候処 依
      御願御早御発駕
一、同三年 四月十九日御暇被仰出 同廿一日御礼 五月朔日江戸御発駕 東海道御旅行 同十七日大坂     細川齊護公「道の記 1
  御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月五日熊本御着

一、同四年三月朔日熊本御発駕 小倉路御通行従大里御乗船 室路御越 同十七日大坂御着 東海道御旅行
   四月十七(ママ)日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
一、同五年二月十五日月次御祝儀御登城之処 御礼後於白書院御縁頬 御暇年ニ候得共 当年は御暇
  被下間敷旨被仰渡御滞府
一、天保六年今年御詰年
一、同七年 四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿五日江戸御発駕 東海道御旅行 五月十三日
  大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同晦日熊本御着
一、同八年三月十一日熊本御発駕 小倉路御通行従大里御乗船 室路御越 同廿九日大坂御着 東海道
  御旅行 四月十七日江戸御着 同廿一日上使 同廿三日御礼
  天保五年二丸惣御修復御建具御普請御用御勤付 今年七月中可被遊御参府旨被仰出
  候処 依御願御早メ御発駕
一、同九年 四月十五日御暇被仰出 同廿一日御礼 閏四月六日江戸御発駕 東海道御旅行 同廿三日
  大坂御着 室路御越従室湊御乗船 小倉路御通行 五月十三日熊本御着
一、天保十年二月九日熊本御発駕 小倉路中国路御通行 同廿九日大坂御着 美濃路東海道
御旅行
  三月十七日江戸御着 四月十三日上使 同十五日御礼
一、同十一年 四月廿一日御暇被仰出 同廿三日御礼 五月十五日江戸御発駕 東海道御旅行 六月二日
  大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同十六日熊本御着
一、同十二年四月六日熊本御発駕 鶴崎より御乗船 室路御越 同十八日大坂御着 美濃路東海道御旅行
  五月五日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
     御実母栄昌院殿 閏正月廿七日御死去之御訃音 二月九日熊本相達 御忌中
     御発駕延引

一、同十三年 四月廿一日御暇被仰出 同廿三日御礼 同廿九日江戸御発駕 東海道御旅行 五月十五日
  大坂御着 室路御越従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月朔日熊本御着
一、同十四年二月五日熊本御発駕 小倉路御通行従大里御乗船 室路御越 同十七日大坂御着 東海道
  御旅行 三月四日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
     公方様今年四月日光山御参詣付 五月中旬御参府被仰出而茂可有之処 御持病
     被仰立依願御早御参府

                               (了) 



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「旦夕覺書」 鳥--8

2011-07-02 23:11:03 | 旦夕覺書

一、同弾蔵方より先年太守様宣の字御拝領の時江戸より同姓中に達書に御悦を被差越申候紙面に 
  宣紀公の御字にカタカナ付候て即刻讀申様の心と存其外御持鑓或御駕の者の衣類迄書付差越申候
  拙者心には扨々能心を付申候是に熊本には即刻侍中に聞せ申度事觸状にても廻可被申事と存候故
  舎人殿に持参仕右之段一々申 同名平八は兎角器量御座候と同名なから感し入申 是は御觸にて諸
  侍中にも早く知らせ申度事とわさと舎人殿に返々申達候へはかたかな迄付たか/\とくり返/\きも
  つふされたる様子にて候つる 惣躰弾蔵をは舎人殿は夫程能きとは不被存候故拙者能と申候に幼少よ
  り唯今迄の儀私ならては他人何とて可存哉親には生れ増たる取多御座候 色々申たる事共弾蔵殿に
  語申候間覺居可申候
     初江戸より帰候刻舎人殿御迎に出被申候て久住一宿の所に立寄申さねとて角入宿を
     可知と存使遣なとヽ被申たると覺申候

一、平九郎初て江戸御供にて参候時曾我殿かと覺申候御使者に参候時分折節能を被仰付候日にて
  幸に思召候外に御用も無之候はヽ其儘居申候て見物被仕候へ 太守様へはみぎの之通御噺御断可
  被仰上と御懇頃に被仰聞候 曾我殿は御代々別て御心安く思召故に右之通の時に参仕合と申見物
  罷帰候上 妙應院様事之外御意に叶兄の平八も及び申間敷との御意にて候つる 兎角ケ様の時節も
  善悪共に身を捨申心に無て候へは分別極めかたく候 かろき事にて平九郎器量顕れ申候 不實にて
  はいかヽ可仕哉其儘見物候ては 太守様御意に叶申間敷候 曾我殿へ御断申分は軽事なとヽ十人
  並の男は分別分り兼申候 此時は曾我殿御留被成候事はおもく 太守様の思召をは軽く存る事當然の
  道理にて候 就夫御双方様の御心に叶別して 太守様御意に叶候信實から出たる事は天の恵みある
  道理にて候 何事に不限其時々の軽重可有之儀にたとへ御意にても事により軽く御家来迚も事により
  重く在る事可有之候 何事も信實より出たる事にてなく候へは能とは不被申候 昔の善人と申物も聖
  賢の傳を請言行たしなみ其の身の行能無之候ては諸人合點不仕候 兎角學問を好み本を正敷其身
  を治天下治と御座候事何事にも入申候 平生の寄合咄申にもむさと仕候 當世のはやり事に小歌三
  味線大酒を呑大食をいたし面白く存る者は差當り今度の様成る扶持方はかり渡候時分行當迷惑仕
  候 能々工夫可有事に候 かな書の書物にも實と偽と御座候 實を書きたる書物古人の言葉多候 隙の
  刻は御覧可有候 正成の軍法皆々唐にて有たる事にて夫を尤と見被申たる故におのつから正成の
  智謀も出たると聞へ申候 何時も昔仕置候儀は宜敷當世の事は當時/\の用にても以後には捨り
  申候 惣躰はやり事は末々の者好む事と  三齋公御意被成候儀覺書に調候間御覧可被下候 我身
  の覺候事迄覺書に調申候 六拾年前より廿年程はむそりの刀脇差はやり拙者も差申候 四十年より
  此かた又昔のことく反りたる刀脇差に成り申候 第一に用申候刀脇差さへ右の通併御家中にて歴々
  其外老人衆さし不申候 これにて合默可有候 犬の庭鳥の菊の花のと金銀つゐへ誠に/\無物躰存
  候 近頃は皆々すたりたると承及申候 必々はやい事御用ひ有ましく候 拙者能覺申候 廿年/\には
  本のことく成物と三齋公御意の通に身に覺申候

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細川家御依頼の追弔法要

2011-07-01 22:48:09 | 熊本

 熊本市横手町に有る安國禅寺では、例年七月六日に以下の戦死者の供養の為の追弔法要が細川家によって執り行われる。

       ■有馬陣戦死者供養
       ■上総沖溺死者供養(ハーマン号座礁事件)
       ■小倉陣戦死者供養
       ■東国戦死者供養(戊辰戦争)

 これらの戦いで亡くなった方々を弔うため、細川家では今以って供養の礼を尽くしておられる。これらの関係者ご遺族のご出席をせつに望むものである。

       時間:午前十一時より

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御代々様御参勤御帰国 (10) 齊樹公

2011-07-01 22:28:01 | 旦夕覺書

齊樹公

一、文化二年四月十八日御部屋住初而御暇被仰出 五月三日江戸御初駕 白金御屋敷御住居 東海道御旅行 同十九日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月七日熊本御着
一、同三年正月廿三日熊本発駕 小倉路御通行 従大里御乗船室路御越 二月十三日大坂御着 東海道御旅行 三月二日江府御着 同十五日御礼
一、文化九年四月十五日御家督後初而御暇被仰出 文化七年十一月十日御家督 同廿八日御礼 五月朔日江戸御初駕 東海道御旅行 同十七日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月三日熊本御着
一、同十年二月廿七日熊本発駕 従鶴崎御乗船室路御越 三月十七日大坂御着 美濃路東海道御旅行 四月六日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
一、同十一年四月十五日御暇被仰出 同十八日御礼 同廿四日江戸御初駕 木曽路御旅行 五月十三日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月二日熊本御着
一、同十二年二月廿三日熊本発駕 鶴崎より御乗船室路御越 三月六日大坂御着 東海道御旅行 同廿三日江戸御着 四月九日上使 同十三日御礼
一、文化十三年四月十八日御暇被仰出 同廿一日御礼 同廿四日江戸御発駕 東海道美濃路御旅行 五月八日伏見御着 依御病気同所十七日迄御逗留 同十八日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 六月七日熊本御着
一、同十四年四月廿一日熊本発駕 依御病気御発駕御延引 小倉路中国路御通行 五月廿三日大坂御着 美濃路東海道御旅行 六月十八日江戸御着 七月三日上使 翌四日御礼 御頭痛気ニ付御使者 御用人 を以御献上
一、文政元年 文化十五年改元 四月十六日御暇被仰出 同十八日御礼
   四月十九日御礼可被仰上旨御奉書御到来之処御病気ニ付御断
   今年依御病気御滞府
一、同二年 去年以来御滞府 四月三日より御出勤 上使無之 四月十五日御礼
一、文政三年四月十五日御暇被仰出 同十八日 同廿五日江戸発駕 同晦日日光山御参拝 前以御願相済 五月朔日彼地御発駕 同四日江戸御通行 今日両御様江御越御機嫌御伺丸御用番龍口御屋敷に御立寄 東海道御旅行 同廿一日大坂御着 室路御越従室湊御乗船 小倉路御通行 六月十七日熊本着
一、同四年九月十三日熊本発駕 小倉路御通行従大里御乗船室路御越 同晦日大坂御着 東海道御旅行 十月廿日江戸御着 同廿九日上使 十一月朔日御礼
     去年日光山御霊屋向并諸堂社御修復御用御勤付 七月中旬可被遊御参府旨被仰
     出置候処 其後依御病気御発駕御延引
一、同年五月十六日御暇被仰出 同十九日御礼 同廿四日江戸御発駕 東海道御旅行 五月十五日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同廿八日熊本御着
一、文政六年三月廿七日熊本発駕 小倉路御通行大里より御乗船室路御越 四月十五日大坂御着 東海道御旅行 五月六日江戸御着 同十三日上使 同十五日御礼
     今年依御病気暫御発駕御延引
一、同七年四月十五日御暇被仰出 同廿八日御礼 四月十八日御礼可被仰上旨御奉書御到来之処 依御病気今日御礼 五月十五日江戸御発駕 東海道御旅行 六月二日大坂御着 室路御越 従室湊御乗船 鶴崎路御通行 同十七日熊本御着
一、同八年九月廿五日熊本発駕 依御病気御発駕御延引 従鶴崎御乗船室路御越 十月十四日大坂御着 東海道御旅行 依御病気関宿江十月廿日より十一月十二日迄御逗留 十二月二日江戸御着 同廿五日御礼就御病気御使者 御用人 を以御献上
     御着府之上御病気而不被遊御出勤候付 上使無之
一文政九年二月十二日御逝去

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