■朝の地震夢うつつの中ぐらりと来た。横揺れがかなり長い時間感じられたが報道によると30秒ほどであったらしい。感じでは3強くらいかなと思ったら我が地域は3。時計を眺めたら3時すぎ(本当は3時前?)...
これは1年前の今日のブログだが、大分で震度5強の地震が発生していた。
いまから思い返すとまさに今年の地震の予兆かなと思ってしまう。
今日も小さな揺れを感じた。最近は一つ一つ取り上げることはなくなったが熊本の地下が壊れ続けている。
最近時折自衛隊から風にのってラッパの音が聞こえる事に気づいた。今日はちょうど午前11時、ふと何のラッパだろうと思った。
私の部屋からは自衛隊のパラボラアンテナの塔などが見えている。最短距離では300メートルほどしかないが、正門までは8~900メートルくらい、西部方面総監部があり、防衛施設局があり、健軍駐屯地でもある。
どなたかお偉いさんをお迎えするラッパかな~などと考えながら、我が家はもう引越すこともなかろうから、今後何度も聞くことになるのだろうと思ったことであった。
昨日12日が、細川家記「綿考輯録」の編者小野武次郎の命日だと気づいた時には、日が変わっていた。
幽齋公から光尚公までの四代については、刊本出水叢書「綿考輯録」として大いに活用している。
その恩恵に感謝するとともに、小野武次郎の偉大なる業績にもかさねて感謝しなければならない。
武次郎の業績はここで潰えているわけではない。「細川家記續編」として存在している。
ここに掲げる写真は、東大史料編纂所が所蔵し、データベースで閲覧してプリントアウトしたものである。
東大史料編纂所データベース検索 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/
現在その膨大な史料の内、「綱利公 一」の読み下しにチャレンジしているが、遅々として進まない。
ただむなしくプリントアウトしたコピー用紙の厚みが増して行くばかりである。
地震発生前からチャレンジしているのだが、まずは「綱利公 一」をがんばって完了させたいと思っている。
武次郎殿のご命日にあたって、気合を入れなおさなければという思いである。
今日7月12日は延享が寛延と元号が変わった日である。桃園天皇即位による代始改元だが、あいも変わらず幕府の横やりで日延べになりながらの今日になったとされる。4年の10月27には宝暦に改元されるから、年号としては3年4ヶ月余と短いものであった。
将軍は徳川家重、熊本藩主は細川重賢である。
延享という年は細川家にとっては藩主宗孝が江戸城中で、板倉修理勝該に切られて亡くなるという不幸な事件があった。
それを受けて弟主馬が襲封した。八代藩主重賢(28歳)である。寛延3年には久我右大臣息女・由婦姫と結婚、藩主の慶事とともに藩政改革が宝暦改元とともに進められていくことになる。寛延という年は、肥後藩にとってはまさに時代が大きく変わる節目であった。
永 六輔氏が亡くなった。
昨日の今頃、私は先にご紹介した矢崎泰久著の 句々快々・話の特集句会 という本を読んでいた。日が変わった今日永氏の訃報に接した。
話の特集の編集者であった矢崎氏が誌上の句会で交遊のあった人たちの句を紹介しながら、いろんな話題を紹介している。
多くの女性も参加する中で、「ばれ句」を作らせられたり、そのおかげで大女優SY氏の「うそー」というような句がどこからか漏れて、以来SY氏が怒ってそれ以来出席されないなどというなどなどである。
その中の一人に永六輔氏がいた。この人の「ばれ句」は相当なもので知られるが、女性でも負けじとがんばっている方が居られる。
私が過去にご紹介した「東京やなぎ句会」の人たちも多く登場している。永六輔氏もそのお一人なのだが・・・・
遺作をいくつかご紹介しよう。
屋根瓦一枚づつの春の雪
一瞬の梅が香やがて降りる駅
六月の画廊しずかな雨やどり
髪束ねくくりて衿の涼しさよ
その中に夕陽が沈む釣りしのぶ
朝市に紅を添えたり唐辛子
この闇のどこに咲くのか沈丁花
遠回りして生きてきて小春かないくも
東京やなぎ句会の編による「友あり駄句あり三十年」から、私の好きな句を選んでみた。
永氏には熊本に関する句もある。
上通り下通り抜け春の風
この句については、以前ブログでも書いた。http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/bf162ac640324fefa0aa2f257597061c
ちょうど一年ほど前に書いているのだが、偶然に少々驚いている。
ちょっと舌足らずの江戸っ子の歯に衣着せぬおしゃべりが懐かしい。
奇しくも同じ日、ザ・ピーナッツの伊藤エミさんの訃報もあった。TVの草創期から共に活躍されたお二人だが、昭和という時代を象徴するような方が星となられた。
ご冥福をお祈り申し上げる。
追記:7月12日の朝日新聞デジタルニュースの特集「永六輔さん死去」
http://www.asahi.com/topics/word/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94.html
後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将 (中公新書) | |
福田千鶴 | |
中央公論新社 |
商品の説明
内容紹介
大坂の陣でいかに奮戦し、壮絶な最期を遂げたのか。武勇を謳われ、浄瑠璃や歌舞伎などで英雄として描かれた武将の実像に迫る評伝。
【目次】
第一章 後藤又兵衛の系譜
第二章 主家黒田氏の発展と後藤又兵衛
第三章 乱世から天下静謐へ
第四章 大坂籠城への道――牢人たちの選択
第五章 大坂冬の陣・夏の陣
終 章 戦国武将の実像
内容(「BOOK」データベースより)
戦国時代、黒田官兵衛・長政の二代に仕え、武勇を謳われた後藤又兵衛。豊臣秀吉の九州攻めや朝鮮出兵、関ヶ原合戦で活躍するも、長政に疎まれて主家を去った。長い牢人生活を経て、秀吉の遺児秀頼の招きに応じ、一六一四年、大坂城に入城する。徳川方に比して劣勢明らかな豊臣陣営に加わったのはなぜか。大坂の陣でいかに奮戦し、壮絶な討死を遂げたか。後年、歌舞伎や講談などで快男児として描かれた武将の実像に迫る。
九時半過ぎチャリンコで5分の投票所まで出かける。約1キロほどの距離だから歩いてもよいのだが、少々膝も痛いし雨の心配もあってのことだ。
投票所は錦が丘中学校、閑静な住宅街の中にある。道路の両側の街路樹は蝉しぐれである。
全県区定員1名で任期が6年ということもあり、現職有利の報道もあり、結果みえみえの選挙で面白くもなんともない。
雨の予報があったから棄権しようかとも考えたが、その気配もなく行かずばなるまいと考えた。
熊本は一向に変わらぬ保守王国だ。何の仕事をしたのか6年・12年とすごしてまた先生にお成りになる。
熊本はまた「もっこす」の国だ。もっこすぶりを発揮しての1票を投じたが、また負けかな・・・・
風鈴のそよとも鳴らず参院選 津々
18時05分頃地震がありました。震源地は熊本県熊本地方(北緯32.7度、東経130.6度)で、震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は4.4、揺れは佐賀(2)・福岡(2)・長崎(3)・大分(1)・宮崎(2)・鹿児島(2)・山口(1)と広範にわたり、まだまだ健在ぶりを示しています。
この緯度・経度に該当するのはJR三角線の住吉駅の近くですが、同じ場所を震源として度々地震が起きています。
実はその前、15時42分頃には熊本県阿蘇地方(N33/E131.1)にて 最大震度1(M2.5)震源の深さは10kmの地震が発生しています。
まだまだ終息は程遠い恐ろしさを感じさせます。
先に落札した「切支丹就御改仕上起請文前書・肥後家老へ文久4年の裏書」が手元に届いた。
写真では判りづらいその人は、大友宗麟の子孫の一人である松野又右衛門殿であった。
少々勘違いがあったが、又右衛門本人が長岡監物に宛てた「起請文前書」であり、裏書は松野家の菩提寺・宗岳寺である。
松野家はもともとキリシタンであったが棄教した。そのため長きにわたりこの様な起請文の提出が義務付けられた。
本当に良い史料が手に入り爺様はご機嫌である。
+----義乗-----義家(無嗣断絶)==義孝・・・・・・・・・・・・・・・→(旗本大友家・高家)
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大友宗麟---+---義統---+----松野右京---+--主殿------主殿 ・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 二千石・孫三郎家)
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| +---義孝・・・・・・・・・・・・・・・→(旗本大友家・養嗣子となり再家)
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| +---義冬・・・・・・・・・・・・・・・→(旗本松野家創家)
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+---利根川道孝----松野織部---+==亀右衛門==亀右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 千五百石・亀治家)
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| +----善右衛門----又右衛門---善右衛門----四郎大夫---善右衛門---又右衛門---善兵衛--- 一葉
| (細川家臣 五百石・一葉家)
+---半齋--------八郎右衛門 ・・・・・・・・・・・・・・・→ (細川家臣 千七百石・八郎家)
文久四年四月に長岡監物に宛てた「切支丹就御改仕上起請文前書」と、松野■右衛門の裏書である。
大変興味深く思っていたが、PCのトラブルで応札できないかと思っていたが滑り込みセーフで無事落札。うれしい・・・・・
朝食後、魔がさしてWindows10をインストールしてみるかと何とはなしにクリックしてしまった。
そのまま放っておいて昼過ぎにそろそろ確認しようと思ったら・・・・びくともしない。やってしまった。
正式にインストールされたものを元に戻すのは簡単なように説明されていたので気楽にやって失敗した。
どんなに触っても修復するための画面が開かない。PC自体の詳しい取説がないので悪戦苦闘、PCをひっくり返したり眺めすかしたりしてあるボタンを押すとようやく・・・出た。それからまた一苦労、結果的には「元のビルドに戻す」という説明からようやく元の通りに復元した。
「正保四年七月七日・・・」の記事は、奥方のiPADで書いたのだが、地図その他の記事はPC修復後にあわてて書き足したものである。
以前もWindows10をインストールしようとして動かなくなり、その時はPCレスキューの店に持ち込んで2・3日の時間と一万円弱のお金を使った。
教訓:さわらぬ神にたたりなし。 肝に銘ずべし・・・・
ここ数日その日に起きた歴史上の出来事を書いているが、正保四年には熊本藩にとっては天草島原の乱に続く試練が待ちうけていた。
長崎にボルトガル船が入って来た事が先の月の24日に報告がもたらされており、いよいよ長岡監物が本隊を率いて長崎に出船した。
出兵の総数は 11,301人に及び、その内加子が4,896人、船の数は447隻に及んだ。
特に作戦面に於いては長岡監物の進言が取り入れられ、舟を並べて船橋として長崎湾の入口を封鎖し、ボルトガル船に速やかに立ち去るよう促し、憂慮されるような事柄も生じずに解決に至った。戦とはならなかったものの、経済的負担はその後の藩の運営に少なからぬ影響を及ぼすことになった。
若き藩主光尚の名を高らしめた出来事でもあった。
正保四年のポルトガル船の長崎来航に関して、綿考輯録は次のように記している。
比は正保四年亥六月上旬、南蛮国よりかりあんとか申切支丹之大船長崎の湊に入津仕、自今已後商売舟日本渡海の御詫言申上候願之旨を申上る、御政所馬場三郎左衛門様より江戸江可有言上候、暫ク相待候へと御答、九州二嶋江早速人数を被指出、邪船弐艘不計帰帆不仕様ニ可有覚悟、御誅伐有なしの儀ハ江戸より可為御下知次第との御飛脚七月四日未明ニ到着す、光尚公御在江戸之御事なれハ長岡式部殿ニ御一門細川左京殿・細川刑部殿、御家老中・御備頭衆御寄合ニて即日未之上刻長岡勘解由手勢三百余ニ而熊本押出す、直組・下組諸者頭彼而の面々段々はせ追、同日亥の刻河尻ニ至る、同子之刻乗船、軍勢都合五千程とかや、二蕃貝ニ纜をとく、三番貝に押出す、折節追手の北風吹しほりけれは、同六日の晩景に長崎の湊に着舟す、諸国之船共はともづけニ懸る、御国船ハみたれ懸りにする、船数かそえられすとかや、元より鍋嶋信濃守様御当番御請持成れハ、御家老鍋島七左衛門はからひとして、深堀のせば戸八丁の所を弐尺廻りのと綱を以、東西の岸の松に碇からみ付、所々に大木のうけをつけ、敵船をさへきりとめんとの支度也、扨二蕃手長岡監物殿六千の人数を引卒して同七日ニ長崎江着船し給ふ、と其儘麻上下を着し、唯今到着仕候、奉窺御機嫌とや、三郎左衛門様早速御対面残暑甚候ニ堅固ニ早ク到着、御出歓入候、監物殿参上を御聞被成候と其儘諸国参陳之家老衆へ急報ニ被参候へと御呼使参る、何も早速参上御対面、誅伐可仕旨之上意下るとひとしく打果候手立、且又其内与風敵船出船可仕と押へ申ハと綱ニて弥丈夫ニ候哉、累年之被仰付と違背したる敵国候ハゝ、公義の御為大事之儀ニ候間、各存寄心底を不残委細ニ可被申と也、何も詞を出さす、ぎしとして被居ける
御政所被仰候は、監物殿事岐阜・関ヶ原・大坂夜討、同五月六日七日之防戦数度之分骨他ニ異して、第一名将忠興公ニ馳被申候へは卑下もならぬ事、若取逃し候てハ日域末代のかきんたり、上様之御為なれハ武略を尽されよと也、監物畏て人ケ間敷御諚の上は、愚存之趣可申上候、火急之儀ニ付手と綱之儀尤之儀ニ御座候(瀬戸口に大縄を渡すという事) 乍然邪船押而帰帆候はと綱幾筋御はらせ被成候共、乗沈め可申候、若船底ニさわり候ハゝ、船具を仕候刃物を以切はなち罷通り可申候、船橋を被仰付可然と也、御政所仰ニ、八丁之所を日数かけば可取切候得共、取切と見て被取籠、叶ハしと乗出し候ハゝ、手を可失と也、いや只肥後守一手二被仰付候へ、今夜不明内ニ取切り候而可懸御目候と也、材木ハいかに監物抑さへ被付候へは出来可仕候、若材木不便ニ候ハ、当所之町を取こハし、船橋出来之上ニてはや明日より前ニ不劣様ニ作事仕らせ遣可申と也、しからハ監物殿裁判次第、然共八丁を皆迄と申も余也、四丁を肥後殿御手へ、残る四丁を諸手二而懸渡され候へと也、御諚畏候とて各退出、監物元船に帰座有て渡辺作之允と申かせたる石火矢を呼、其方儀今夜中に四丁の所に舟橋を懸渡す材木・釘・かすかい諸具つかへざる様に心いつはひニ可相渡しと也、渡辺も誠に不存儀なれハ、あきれはて忙然たり、雖然夏の短夜不明内に四丁をかけ渡す、急用なれハ渡辺なに/\わたせ/\請取へしと諸手へさゝ波の磯のまさごをうつ風情、作之允船々ニ材木夫々の品々を材木ニくゝりつけ、帆柱所二立置而、てんでニ手柄次第とらしませよとよはわる、聞伝へ/\渡辺ニ届る迄もなくはひとりのことし、数万の材木・貫・平物・かすかい・縄以下おつとり/\懸わたす、猶其上に三階の矢くらを三ヶ所ニあげ、塀・板はりの所大杉原を以てはりたて候へハ白かべのことし、石火矢さま切てあれは、石火矢・大筒数十挺しかけける、当御手ハ不及申、残る四丁も諸手より夜の中にかけ仕廻ぬ、夜明けれは見物の諸万人群集してわたりとやめく、橋の上ニ幾所ともなく臼を持出、米をうつ、都五条ノ橋の上もかくやとみえてにきやか也
正徳二年(1712)の七月六日、四代綱利公がようやく(?)隠居を願い出た。
綱利は宝永元年(元禄十七年・1704)以来、毎年の如く滞府(在江戸)の願いをだして帰国していない。
これは老齢の生母・清高院(宝永七年(1710)死去・90歳)の事を思ってのことだとも言われるが、この異常な滞府の状況を「帰国すれば国元の家老達に押込めにされるからだ」という噂がたったという。
朝日定右衛門の「鸚鵡籠中記」には、宝永四年(1707)五月のこととして「頃日の江戸の沙汰に云、細川越中守も在江戸の事は、在国にてはあのふ行跡にては、執権共に押込らるべきやとて在江戸のよし」と記している。真実の方は如何であろうか。
養嗣子・宣紀に家督をゆずる気配もないため、江戸家老・木村半兵衛が綱利の居間近くの詰間に三日詰めて決断を促したという(肥後先哲偉蹟)。
天明五年七月五日は宇土支藩・五代藩主細川興文公の命日である。同時代をいきた本藩当主細川重賢公とならび名君と称せられた。
肥後人名辞書に曰く
延享二年宇土細川の封を襲ぎ宇土郡三萬石を領す。是より先宇土の藩政漸く弛み、國用亦疲耗し、士人勤儉の實なく、惰弱華奢の幣に陥らんとす。
興文深く之を憂ひ、三條の調戎を下し、大に宿弊を一掃せんことを圖り、武を励まし文を奨め、實業を興し人材を擢用し、功臣の家を起し、敬神崇祖の
精神を養ひ、實践射行を以て一藩を指導督励したりしかば、紀綱大に振ひ、士風頓に革り、中興の明主として敬仰せらる。興文聡明敏達にして識見あ
り、威容厳然として意気剛邁、一見人をして容を改めしむ。夙に秋山玉山に師事して修養怠らず、詩書に最も長じ、其他槍術、馬術、茶湯、和歌連俳等
の類に至る迄、其道を極めざるものなし。服部元喬、米田波門、高野蘭亭、坂井微郷等と交情最深かし。明和九年の頃南海の景地(不知火村大字桂
原)を選び、小庵を営み焦夢庵と號し、九勝地、十五景を定め、風月を樂みき。其西方數里網津村に鹿夢庵を経営して、遊■の休息所とせり。桂原遺構
は即ち焦夢庵の景を叙し、文人雅客應酬の詩文を集めたる冊子なり。其幽栖の歌に『山をわれ樂しむ身にはあらねどもたゞしづけさをたよりにぞすむ』
と興文封に在ること二十有八年、天明五年七月宇土城に於て卒去す。行年六十一歳、仝郡泰雲寺に葬る。幽厳寺殿心海月翁大居士と號す。庶民涙を
呑んで之を哀悼せざるものなし。碩儒柴野彦輔評して曰く『宇土侯畏るべきなり、簡重雄偉之を望むに儼然たる百域の主なり、子小侯に似ず、其徳容
太宗に隠映す』と、以て其徳望の高きを知るべし。