津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■後藤又兵衛新史料

2016-11-19 20:56:53 | 史料

11月16日 22:41 · 岡山県立博物館 書付「後藤又兵衛討死之時」発見について報道発表。

後藤又兵衛は、大坂の陣で真田信繁(幸村)らとともに大坂方として活躍した武将で、この戦いで討ち死にしています。
今回発見された資料、書付「後藤又兵衛討死之時」は、又兵衛の首を討った脇差が、又兵衛が豊臣秀頼から拝領したものであったこと、又兵衛最後の様子を秀頼に報告したことなどが記されており、又兵衛のもとで戦った金万(こんま)平右衛門、もしくはその子孫が書き記したものと考えられ、平右衛門の子孫宅に残されていました。大坂方に参加した武将が書き残した記録としても大変貴重なものです。

この資料は、11月25日(金)から来年1月15日(日)まで、岡山県立博物館にて展示されます。

自動代替テキストはありません。
横35.0センチ、縦27.4センチ 介錯を務めた金万平右衛門の子孫宅(京都)所蔵
 
釈文
 一、後藤又兵衛討死之時従
   秀頼公拝領之脇指[行光]、是ニ而
   又兵衛首ヲ討、 秀頼公御前ニ而
   如此討死仕次第申上候へとて
   長四郎と申児姓二脇指相渡
   被申候、長四郎脇指請取候へとも
   又兵衛印ヲあげ候義ハ不罷成
   脇差斗 秀頼公江差上ケ申事、
 一、脇ニ居申候小性、是ハ又兵衛指物之
   くり半月之片おれヲ又兵衛
   討死仕候証拠ニ 秀頼公江差上申候、
 一、平右衛門義ハ右両人之者仕廻候後ニ
   其場江参着申候事、                            (埼玉・柏木様のご協力を得ました)

その内容
 ・後藤又兵衛が討ち死にした際、秀頼公から拝領した脇指行光(わきざしゆきみつ)で、又兵衛の首を討ったこと。
  秀頼公の前で又兵衛の討ち死にの様子を報告した際、長四郎という小姓に脇指を渡しました。又兵衛の印を差し上げることはできなかったこと。
 ・脇にいた(別の)小姓に又兵衛の指物である「かえり半月」の片折れしたものを、又兵衛の討ち死にの証拠として秀頼公に差し上げなかったこと。
 ・平右衛門は長四郎たちに手渡したのが終わった後に(秀頼公の前に)到着したこと。 
 
この金万平右衛門は備前国の国人で、大坂の陣において又兵衛のもとで戦った人物。戦後は稲葉正成に仕官し、その子孫は淀藩稲葉家の家老であったと伝わります。
                                                             岡山県立博物館、各メディア報道文を要約
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■従征日記/川口武定/西南戦争の貴重な資料・2冊/日本初の近代戦

2016-11-19 18:35:05 | オークション

                                                        従征日記/川口武定/西南戦争の貴重な資料・2冊/日本初の近代戦

                 従征日記/川口武定/西南戦争の貴重な資料・2冊/日本初の近代戦

                                う~ん、高い・・・・・・

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■本妙寺に宛てた齋藤伊豆守利光書状

2016-11-18 07:27:07 | 史料

 昨晩ヤフオクで落とした巻子仕立ての「★伊豆守利光 肉筆書状写/古文書 武将 由来書」です。
皆さん興味がなかったのか、応札者がなく楽勝となりました。

齋藤伊豆守利光(宗)とは春日局の兄で一時期加藤清正に仕え、後旗本となった人で細川家とも親しい関係にある。後に立本と号した。
書状の内容は加藤清正の菩提寺・本妙寺に宛てたものだが、文中には春日局稲葉丹後守(甥・春日局嫡男-老中)・越中殿(細川忠利)・松下市之進(細川家家臣)・阿蘇神主(阿蘇惟善か)等々が賑やかに登場している。 

手元に届いてから詳細に読み下しにチャレンジしよう。

 

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■松寿庵先生・第211講

2016-11-17 08:31:24 | 史料
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■病院行

2016-11-16 09:30:07 | 徒然

 昨日は朝から何とも気分が悪く、ついに病院行を決心した。左手がしびれ、左胸が痛み、ときおり立ちくらみがする。
心臓に由来するなーと一人思い込み、心臓外科も標榜する近所のA内科病院へ行く。
お決まりの検査をすべて行い結果を聞くと、心臓から起因するものではないらしい ????
高血圧と高血糖が指摘された。すぐに薬が処方されると思ったが、血圧の記録があれば拝見したいと仰る。血圧の薬はどれでもよいというわけではありませんよ!とのご託宣である。
簡単にどっさりの薬を処方されるよりも何だか信頼が持てる。

「地震で建物の被害などとともに体調を壊した方が多いですね」 「少し運動をして血圧を下げるようにしてください」と仰る。
ごもっとも・・そろそろ朝の散歩を再開しましょうか。



 

 

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■瑤台院様の箱根関所越え

2016-11-15 08:22:23 | 歴史

 細川藩九代藩主の治年は天明七年(1787)九月十六日江戸にて死去した。年二十九歳。嫡男・年和が年若であった為、正室・瑶台院の実弟宇土藩主・立禮を養子として十代藩主とした。斎茲である。
そんな中瑤台院は寛政四年(1792)四月、国元へ湯治の名目で帰国している。

実は先にご紹介した「箱根関所物語」に、四月十四日「細川越中守養母瑤台院」が国元へ湯治の為帰国、箱根の関所を通過されたことが記されている。
三月下旬にはこの帰国については関所へも知らされていたらしく、二十七日関所から小田原藩に対し、その取扱いに対し判りかねることを尋ねる伺い書をだしている。
「入り鉄炮と出女」は大変うるさく、大名家とて同様である。処が瑤台院が先代の藩主夫人であり、あまり例がなかったとみえての伺いだったようだ。

1、役人は上の間の下座に下がること。
2、上の間における人見女の改めは大名夫人同様の扱いとすること。
3、通行にあたっては先番の女中衆が少し前に来るが、(そのまま通さず留め置き)瑤台院改めの付き添いをさせること。
4、瑤台院の駕籠は番所縁側までは陸尺(かごかき)、上の間へは細川家付き添いの者が行い、その者は縁側で控えること。
5、瑤台院の駕籠には御側用人二人、付き添い女中一人が上の間に上がってよいこと。
6、駕籠が上の間に上がったら役人は次の間へ下がり、人見女を差出して改め、終了したら細川家付き添いの者が駕籠を縁側まで運び、その後陸尺に渡すこと。改めの際駕籠の戸を引くのは付き添いの者であること。    (以上津々堂要約)

以上が伺いによって決められたことであり、このことは通行の日の早朝細川藩士が先行して関所に出向いた際に通告された。
瑤台院は駕籠に乗ったまま関所の上の間へ通され、女性専門の改め役「人見女」によって形式的な「改め」を受けている。

この一事がその後の藩主の母・妹などの箱根関所通過の手本となったらしい。

 

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■悩ましい事

2016-11-14 09:27:15 | 徒然

 最近80歳を超えた高齢者の車の事故が目立っている。そんな中来年1月の運転免許更新を前に、「高齢者講習」が言ってきている。

昨年自分の車を廃車にしてからほとんど自分で車を運転することはない。遠出でもするときはレンタカーを使えば事は足りるし、梅雨時など降ると車が必要だなーと思うが、通常の生活では特段不自由を感じない。
ならば免許を返納しようかとも思うのだが、ここが思案のしどころである。
前回の「高齢者講習」では、運転が「うまい」とお墨付きをもらった。まだまだアクセルとブレーキを踏み間違えるというような事はない。(と思っている)
少々未練があるのは、まだまだ「歴史探訪」で訪ねたい場所がいろいろあるからだ。遠かったり辺鄙な処であったりするからどうしても「足」が必要になる。
もう一度更新しておこうかという気持ちに傾いているのだが、奥方は「返納したら」という。
悩ましい事ではある。
 

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■大蛇行していた旧白川

2016-11-13 09:25:20 | 熊本

            白川 国土交通省九州地方整備局 熊本河川国道事務所HPから引用

                       

                         

 かって白川は大きく蛇行して熊本城長塀下の坪井川に合流していた。
何時の頃か定かではないがこれをショートカットして坪井川の流れとは別にして、現状のようになった。
この地図に於いては、花畑邸の東側に追廻田畑という低湿地帯が見えるが、これがかっての白川の流路であろう。
厩橋あたりに流れ込んでいたが、ここで流れをせき止めた。ちょうど現在の市役所あたりである。(かっての厩があった)
一方下流側は川が90度に屈曲している処から長六橋あたりまでを埋め立てている。
新たな流路は現在の世継橋下流から長六橋にかけてだとされる。この掘削土が埋め立て土に使われたと思われる。

花畑邸うらの追廻田畑は明治中期頃の地図にはまだ存在している。西南戦争時の消失家屋の瓦礫などで埋め立てられたと聞くが?
現在は熊本有数の歓楽街があるあたりだが、まさかかっての白川の跡だとは思われないだろう。 

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■ 橋本昌樹 田原坂 西南役連作 中央公論社 送料164円

2016-11-12 10:55:12 | オークション

                                                                        橋本昌樹 田原坂 西南役連作 中央公論社 送料164円

                         橋本昌樹 田原坂 西南役連作 中央公論社 送料164円

          

橋本昌樹 はしもと-まさき

1928-1973 昭和時代後期の小説家。
昭和3年10月12日生まれ。橋本虎之助の5男。教職につき,昭和46年退職。祖父橋本昌世の西南戦争従軍日誌を発見したことがきっかけとなり史料をしらべ,47年「田原坂」を発表した。昭和48年4月16日死去。44歳。東京出身。東京高師卒。本名は正季。
 
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■松寿庵先生・第210講

2016-11-11 17:09:24 | 史料

             「霊台橋」の画像検索結果 霊台橋 http://www.town.kumamoto-misato.lg.jp/q/aview/72/1046.html

 

        「雄亀滝橋」の画像検索結果 雄亀滝橋 http://www.town.kumamoto-misato.lg.jp/q/aview/72/1038.html

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■越後騒動の犠牲者「仙台小栗氏考」

2016-11-11 08:19:36 | オークション

                          仙台小栗氏考 越後騒動の犠牲者

                                                        仙台小栗氏考 越後騒動の犠牲者

  細川家家臣に小栗氏がある。まさに越後騒動の犠牲者である。(論考:越後騒動覚書
小栗氏の祖・小栗兵庫は、一方の主謀家老小栗美作(藩主光長室の妹婿)の弟で、事件に連座して流罪となった。兵庫には七人の男子があったが、下の四人岡之助・八歳、八之助・六歳、六十郎・四歳、小三郎・二歳が乳母三人と共に、松平出羽守に預けられた。

天和元年(1681)七月四日細川家にお預けの命が発せられる。早速出羽守屋敷に出かけて四人を受け取ると芝御屋敷に召置き、七月六日には江戸を発っている。大阪に七月二十五日着、二十八日には船にて出発、八月八日鶴崎に着いている。そして八月十二日熊本に到着した。 
四人は当時竹之丸にあったとされる囲い屋に入れられここで過ごすことになるが、八之助は元禄七年(1694)十九歳で疱瘡により死去、小三郎も正徳三年(1714)労症(ママ)により三十四歳で亡くなっている。享保五年(1720)幕府より「御預人御免」の沙汰があり、岡之助・六十郎の二人は四十年振りに「囲い屋」を出ている。その後二人はそれぞれ五十人扶持を与えられて細川藩士となったのである。父兵庫は配流先で死亡、松平陸奥守に預けられた兄三人のうち二人は死亡、残された一人が同じ日に同様の沙汰が下されている。

越後騒動の傷は深い。八歳、六歳、四歳、二歳の子供に何の罪が有るというのだろうか。小栗の名を聞くたびにいささかの憤慨を禁じざるを得ない。


 


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■綿考輯録写本

2016-11-10 09:53:12 | 書籍・読書

                 綿考輯録

 日本の古本屋に「綿考輯録・写本二冊 永禄六年十一月至文禄四年七月」 28,000円とあった。

年代からこれは「忠興公御年譜」であることが判る。
永禄六年十一月は忠興公が生まれた年、文禄四年七月は豊臣秀次謀反事件に連座の疑いを掛けられ、賜死の危機にあった時期である。
国立国会図書館デジタルコレクションで「綿考輯録」を見ることが出来る。ちなみに「忠興公」は第9冊から・・・・・
           http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568418?tocOpened=1 

 

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■手木之者

2016-11-09 09:24:55 | 地図散歩

 随分前の話だが、熊本に「岡っ引き」みたいな人がいたのだろうか?という質問を受けた事が有った。
いろいろ調べてはみたが判らず終いでいる。

熊本の安政期の古地図を眺めていたら「手木之者」という書き込みを見つけた。
熊本市中央区水道町二丁目、肥後銀行水道町支店の脇道を入ると「手取神社(かっての長安寺」前の道に突き当たる。
その左角の一角に「手木之者」」とあった。何度も何度も眺め親しんでいる地図だが見落としていた。
そして「手木之者」という表記さえ初見である。「手木」とは「十手」のことをいうらしいが、その他「強く締めつけるために、綱を巻きつける短い木切れ。」という意があるようだ。
つまり捕縛に係る職業の者ではないのか。ただしこの地図によると「詰所」なのか「住居」なのかよく判らない。

そうすると、まだこの様な表記がいくつか存在しているのかもしれない。
安政期の地図は熊本城下を13葉に分けて全てを網羅している。安政期ゼンリン地図といってよい。
これをきっかけに、「熊本の岡っ引き」にたどり付ければと思っている。 

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■本妙寺展「加藤清正と本妙寺」

2016-11-08 13:35:51 | 展覧会

              近世熊本の礎を築いた加藤清正。本妙寺の宝物に浮かびあがる、清正と熊本の歴史を紹介。

                  会期:2016年11月7日(月)~12月10日(土)
                  時間:9時30分〜16時30分
                  休館:日曜・祝日 

            本妙寺展 加藤清正と本妙寺 

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■奥方の目

2016-11-07 16:57:30 | 書籍・読書

 11月1日に一冊、2日に四冊、5日に二冊・・・ヤフオクで古本を手に入れた。都合七冊奥方の目を盗んで郵便受けから取り出すのが一苦労である。
今日は1日の分「箱根関所物語」が到来、ちょうど奥方は外出中でセーフ。明日は2日の分が届きそうだが奥方は明日もお出かけ、何とかセーフと行きそうだ。
これだけ買い込むと普通でさえ本や資料が床に積み上げているのに、ますます収納が成り難くなってくる。
一方小遣いもきつくなり、こちらは財務省の奥方に申し入れをせねばならず、一週間ほどはヤフオクも日本の古本屋も我慢である。
しかしながら毎日その筋をPCで眺めながらメモっている。

「箱根関所物語」は神奈川新聞社発行、かなしんブック5・箱根叢書①とあり、著者は加藤利之氏、なかなか面白い本に巡り合った。

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