鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

永続確信7・最終回「永続確信を固める教会」

2005年02月01日 | この教会の基本理念
 前回、次のようなことが明らかになりました。
 
 永続確信が起点となって、救いの論理への信頼感が生まれ、それを中核としたイエスの言葉が心に留まるようになる。その状態が続いて深化していくと、あるとき聖霊が心の内に入ります。すると、それがグレースの愛を心に生じさせてくれます。

 このプロセスを飛び越えて、いきなり、グレースの愛、無償の愛を求めるとどうなるか。今回はそれを考えます。


                      



<代わりに「世の愛」が出てくる>

 永続確信も深まっていないのに、いきなりイエスに似よう、無償の愛を実践しようとしても、できません。聖霊の働きがないと、そうならないのです。これは、決意や意志によって、出来る問題ではない。もっと構造的、科学的な問題です。

 にもかかわらず、強引にそれをやろうとしていきますと、どうなるか。グレース(天の愛)の  代わりに「世の愛」が 出てきます。

そして、始末の悪いことに、多くの場合当人は、そのことに気づかないのです。で、それがグレースの愛だと思っている。

 もちろん、どんな人にも霊感というのが多少はあります。だから、途中でかすかながら「何か変だな」という自覚をもつことはあるようです。でも、それを契機に、本来のプロセスを志すと言うことは通常ありません。

 そのままで、もっとがんばってしまう んですね。努力によって理想の愛は出来ると思っているから。教会全体が、そうなっているケースが、日本に非常に多いです。もう「愛、愛、愛・・・」の一本槍。牧師さんも含めて・・・。

 これは、うまくいかないのです。そうするとまた、その自分を責めたりもするんですね。反省教会。祈りのほとんどが、自己反省の弁と「神様、すみません、すみません」に終始する教会。これ日本にとても多いです。

 あるいは、他者を叱咤激励したりもする。「自己中心性は罪です!」と叫んだりしてね。これは、英語のself-centerednessを日本語にしたものですけどね。そういって信徒をしかってる先生もいる。もう大変・・・。

<道徳教の場では、一般人は来ない>

 このように愛(世の愛)を意志の力で実践しようとするのは、もう道徳運動ですよね。この道を進むと、 教会は「道徳教の場」に なっていきます。今、日本の教会の99%は、その色彩を持っているのではないでしょうか。

 そこへ、一般社会からの訪問者が教会に来たらどうなるでしょう。わざわざ教会をのぞきに来るというのは、それなりに、一般の世とは何か違うもの、「聖なるなにか」を期待してくるのでしょう。

 ところが、そこでは「愛!、愛!」と叫んでいる。でも、そこで実現しているのは、「世の愛」です。それを見たら、教会って自分たちの生活している世界とあんまり変わりないなあ、と思うほかありません。外部者はそういうことを、直感できるんですね。

 応対の物腰は柔らかいんですけどね。何とか、形から整えようと長いことしていますと、牧師さんはじめ人々の、物腰や顔つきは柔らかくなるのです。でも、中身は訪問者が生活している一般社会と変わらない。それでいて、形を整えようとするのは、精神的にとても窮屈な状態です。

 (なんか、奥の方で心がひきつってるなぁ~)

 「 自由がない・・・ 」ーーそういうことも感知できるんですね。そこへ持ってきて「自己中心性!」なんて、指摘されているの見たら、もうダメ。そんなところに通う気はなくなりますよね。

 わざわざ萎縮しに行く必要などないですから。日本のクリスチャン人口が、全体の1%にも満たない、というのは、自然なことなんですね。


<正統な教会が必要>

 どこがいけないか。いきなり理想の「愛」の実践に走るところがいけないのです。どうしたらいいか。まず、永続確信をしっかり固めるところから開始すればいいのです。

 『鹿嶋春平太チャーチ』が、イエスからの最大のプレゼントを永続確信とするのは、そういう理由です。そういうオーソドックスな教会が、日本人に必要だとこれまで痛感してきたからであります。

人間は永遠に存続します。

      あなたも、永続しますよ!



              (「イエス最大の贈り物は永続確信」完)

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