サマリアの女の項の続きです。
弟子たちがサマリアの村で食料を手に入れて帰ってきます。そして「先生、食べてください」と言います。するとイエスは答えています。
「私の食べ物は、父の御旨に従って、与えられた仕事を成し遂げることなのです」(34節)と。
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ここもまた、考えさせられるところですね。まず押さえておくべきは、イエスが食べ物とここで言っているのは物的な食べ物ではないと言うことでしょう。
ならば、それはなにか。いのちエネルギーである。これは聖書の鉄則です。
すると、創造主のみ旨に従う(obey)、従順することが、すなわちいのちを吸収すること、という筋になりますね。このあたりを解読すればいいです。一体、創主に従うことがどうしていのちエネルギーを吸収することになるのでしょうか。
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ここで、創主からの「命令の言葉」について考えてみる必要が出てきます。聖書のなかの、創主からの言葉には、事態を「説明する言葉」だけではなく、命令の言葉もあります。
説明の言葉を受け入れると、人は、現実の様々な事実をその理屈(言葉)のめがねを通してみるようになります。そして、そうすることは比較的容易です。
ところが、命令の言葉は、そうはいきません。それを「受け入れる」ということは、現実認識の仕方、考え方だけでなく、我々の行動をもそれに「沿わせる」ことになるのです。これはそんなに容易ではありません。言われたとおりに行うというのには、厳しいこともありますね。
けれども、創主の意識に自分の意識を同調させる、というのは、そこまで行ってはじめて完遂するのかも知れません。言われたことを理解しているだけでは、まだ、信仰は途中段階にあるかも知れないわけです。
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だが、創主の意識に自分の意識を同調させると、いのちエネルギーは自分の霊に浸透して来る。これまた聖書の鉄則です。イエスはそれを言ったのではないでしょうか。
説明の言葉を心に留めて、ものの見方を同調させるだけでない。命令の言葉をも意識に留めて行いをも同調させる。
私は父なる創主に対してそうすることによって、いのちエネルギーという食物を吸収しているのだよ、と。だから結果的に、私から創主のすさまじいエネルギーが出て、癒しも出来ているのだよ、と。