鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.64『預言者は故郷で受け入れられず(4章)』

2005年02月16日 | ヨハネ伝解読


 ヨハネ伝の聖句に戻りましょう。

 イエスは、サマリアの村人たちの願を受け入れ、そこに2日間滞在しました。ヨハネは記していませんが、彼らの熱心な求道心に応えて、じっくりと教えを解いたことでしょう。その結果、村人たちはサマリアの女にこういうようになっています。

 「私たちが信じるのは、もう、あなたが話してくれたことによるのではない。我々は自ら親しく聞いた。そして、この方こそまことの救い主であることがよくわかったのだ」(42節)と。

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 この言葉から、イエスはここでは奇跡を行わなかった、ただ、教えを説き続けただろう、と春平太は推定します。サマリア人は、元々はユダヤ人であったのですが、その混血度の大なるが故に、異邦人とされてきた人々でした。

 ところが、こういう人たちの方が、福音(イエスの教え)を素直に受け入れているのです。人間って、そういうものではないか、と思われます。

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 ヨハネは、これに続いて、対照的な事態を記しています。2日後にサマリアを立って、イエスは、自分の故郷であるガリラヤ地方に戻ります。ここは純正ユダヤ人地域です。そのときイエスは

 「預言者は自分の故郷では尊敬されないものなのだ」(44節)

         と明言しています。

 ガリラヤでは、みんなイエスの帰りを待っていました。けれども、それは、エルサレムの祭りでイエスが多くの奇跡をしたことを見たからなのです。

 イエスがそれを見透かしていたことを、ヨハネはわかっていたのです。だから、このせりふを記録したのでしょう。

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 イエスはさらに、同じ地域のカナという町に行きます。ここはかつてイエスが婚礼の祝宴に呼ばれて、水を葡萄酒に変化させたところです(第2章)。

 今回、そこには、役人が待っていました。息子が病気だからなおしてもらおうと、イエスの来るのを、カペナウムから出向いて待っていたのです。

 頼まれたイエスはこういいます。

 「ここでは奇跡を見ないで信じるものは、誰もいないんだなぁ・・・」(48節)。

 役人はかまわず言います「主よ、是非、是非カペナウムまで来てください。子供が死んでしまいます」

 こうすがられると、見捨てることは出来ないのでしょう。イエスは

 「行きなさい。あなたの息子は回復する」

         ーーーと言います。

 イエスから言葉が出ました。すると現実はそれに従う、というのが聖書の論理です。これは隠れた論理ですけれども、鉄則です。だから、まさにその時点に、カペナウムで病に伏していた息子は回復してしまうのです。

 しかし、イエスはこの言葉を吐き捨てるように言ったのかも知れませんね。でも、とにかく、治っちゃった。そして、役人とその家族一同は、イエスを信じるようになった、とヨハネは記しています。癒しというものが、教えを確信させる力は、強いものなんですね。
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Vol.63『正典聖書確定もカトリックがまいた種(4章)』

2005年02月16日 | ヨハネ伝解読



 カトリック教団が播いた種は他にもあります。、正典聖書を編集し、それを正典として確定させたこと、がそれです。

 数多くある書物や手紙の中で、正典に入れるべき信頼の置けるもの選び出すのは大変な作業です。それを全国的一大事業として行うには、全国から代表的な司教を一堂に会させて、公会議を持たせなければならないのです。これは、ローマ皇帝という国家権力の援助があってはじめて出来たことでしょう。

 作るだけではありません。
 さらに、それ以外のものを聖書として使うことを禁じて、そのまま一定の歴史が流れるようにしなければなりません。

 こうして、一つの伝統にしてしまってはじめてそれは社会の中で安定した正典聖書となるのです。こういうことローマという一大国家権力の後ろ盾があってこそできることでした。

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 のちに宗教改革者は、聖書にこそ最終権威があって、法皇にあるのではないという主張を展開します。そして、この点での基本理念を異にした教会を造っていきます。これがプロテスタント教会です。

 けれどもよくみるとこれも、正典の聖書というものが確定していたからできたことなのですね。その正典聖書という種はカトリックが労苦してまいた。それを用いて、宗教改革者は、聖書に最終権威を置く信仰を刈り取ったのでした。

 「一人が播き、別の者が刈り取る」ーーー人間は、イエスのこの教えが真理であることをなかなか悟れません。

 だから、カトリックでない信仰者は、今日では、カトリックをはじめから真っ黒の極悪集団のように言うことが多いです。将来、プロテスタントに対しても、別の立場の人が同じように言うことがあるのではないでしょうか。こうして人間は、同じことを繰り返して歴史を展開していくのでしょうか。

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