永続確信は何故基底的なのか。それは人の内にある「自分という存在は価値があるんだ」という意識の基盤だからです。
<「自価意識」は自己存在への価値意識>
この意識を春平太は短く「 自価意識 」と名付けています。「地価」が土地の価値を現しますので、自分の価値を「自価」と呼んでもまあおかしくないでしょう。
人が生きていくのに、自価意識は非常に大事です。 自価意識がなくなった状態が虚無状態 です。そうすると、人は何もする気がなくなってしまいます。甚だしい場合には、食欲すら失せて、食べられなくなります。
<自価意識は永続確信に支えられている>
これではいけない、とにかく生きていきたい、と一般の人は考えます。そこで、それぞれに何らかの自価意識を抱いて生きています。
でも、自分にどんな価値を意識していても、自分という存在それ自体に永続確信が薄かったらどうでしょうか。「死んでおしまい」としか思えないならその価値意識も時とともに減退していくはずです。
我々の意識の中では、価値とか意義とか言われる意識は、その主体である「存在」の意識に付与されているものです。その状態で、自分という存在が死んでおしまい、ということを知性が自覚したら、どうなるでしょうか。それに付加させていた価値観も、くっついている場所・足場がなくなってしまいます。
その結果、ちょっとした風が吹くと、どこかに流れていってしまいます。そしておそらく、溶けていくのです。
でも、また、何か価値意識を作ってくっつける。永続確信が薄い場合、人間は、それを繰り返しながら、なんとか、寿命がくるまで生きようとするしかありません。
(これが出来なくなった人が、「 とじこもり 」になったり、途中で自らの命を絶ったりします。今、日本では自殺者は、年間、3万人を超えています)
<「自価意識」は自己存在への価値意識>
この意識を春平太は短く「 自価意識 」と名付けています。「地価」が土地の価値を現しますので、自分の価値を「自価」と呼んでもまあおかしくないでしょう。
人が生きていくのに、自価意識は非常に大事です。 自価意識がなくなった状態が虚無状態 です。そうすると、人は何もする気がなくなってしまいます。甚だしい場合には、食欲すら失せて、食べられなくなります。
<自価意識は永続確信に支えられている>
これではいけない、とにかく生きていきたい、と一般の人は考えます。そこで、それぞれに何らかの自価意識を抱いて生きています。
でも、自分にどんな価値を意識していても、自分という存在それ自体に永続確信が薄かったらどうでしょうか。「死んでおしまい」としか思えないならその価値意識も時とともに減退していくはずです。
我々の意識の中では、価値とか意義とか言われる意識は、その主体である「存在」の意識に付与されているものです。その状態で、自分という存在が死んでおしまい、ということを知性が自覚したら、どうなるでしょうか。それに付加させていた価値観も、くっついている場所・足場がなくなってしまいます。
その結果、ちょっとした風が吹くと、どこかに流れていってしまいます。そしておそらく、溶けていくのです。
でも、また、何か価値意識を作ってくっつける。永続確信が薄い場合、人間は、それを繰り返しながら、なんとか、寿命がくるまで生きようとするしかありません。
(これが出来なくなった人が、「 とじこもり 」になったり、途中で自らの命を絶ったりします。今、日本では自殺者は、年間、3万人を超えています)