鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

永続確信2・「自価意識の基」

2005年02月06日 | この教会の基本理念
 永続確信は何故基底的なのか。それは人の内にある「自分という存在は価値があるんだ」という意識の基盤だからです。

<「自価意識」は自己存在への価値意識>

 この意識を春平太は短く「 自価意識 」と名付けています。「地価」が土地の価値を現しますので、自分の価値を「自価」と呼んでもまあおかしくないでしょう。

 人が生きていくのに、自価意識は非常に大事です。 自価意識がなくなった状態が虚無状態 です。そうすると、人は何もする気がなくなってしまいます。甚だしい場合には、食欲すら失せて、食べられなくなります。

<自価意識は永続確信に支えられている>

 これではいけない、とにかく生きていきたい、と一般の人は考えます。そこで、それぞれに何らかの自価意識を抱いて生きています。

 でも、自分にどんな価値を意識していても、自分という存在それ自体に永続確信が薄かったらどうでしょうか。「死んでおしまい」としか思えないならその価値意識も時とともに減退していくはずです。

 我々の意識の中では、価値とか意義とか言われる意識は、その主体である「存在」の意識に付与されているものです。その状態で、自分という存在が死んでおしまい、ということを知性が自覚したら、どうなるでしょうか。それに付加させていた価値観も、くっついている場所・足場がなくなってしまいます。

 その結果、ちょっとした風が吹くと、どこかに流れていってしまいます。そしておそらく、溶けていくのです。

 でも、また、何か価値意識を作ってくっつける。永続確信が薄い場合、人間は、それを繰り返しながら、なんとか、寿命がくるまで生きようとするしかありません。

 (これが出来なくなった人が、「 とじこもり 」になったり、途中で自らの命を絶ったりします。今、日本では自殺者は、年間、3万人を超えています)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KINGDOMの規模と豊かさ

2005年02月06日 | KINGDOM原理からの聖書解読
 聖書は、天の創主のKINGDOMにおけるロイヤルファミリー(王室家族)になるためのノウハウを記した本 、と前述しました。

 今回は、その王国のすさまじい豊かさ、豪華さを聖書に見ておきましょう。
「黙示録」の22章に、天の王国におけるエルサレムの有様が記されています。天使がそれをヨハネに見せた、ということになっています。

      @      @     @

 それによりますと、天のエルサレムは、立方体になっています。縦、横、高さの長さがみな同じ。

 で、その一辺の長さも記されています。それがほぼ、日本列島の北の端から南の端、沖縄までの距離です。この長さの立方体が、天のエルサレムの大きさです。

 まあ、縦、横も大変なものですが、その高さがすごいですね。日本列島の端から端までの長さを上方に立てた状態です。

     @      @      @

 我々の住む地上の、イスラエルにあるエルサレムと同じく、天の王国のエルサレムも城郭都市です。高さが日本列島の長さと同じ城壁で、四面が囲まれています。その 城壁が、みな碧玉(Jasper:濃緑色の宝石) で出来ている、といいます。

 城壁の土台は、様々な宝石で飾られています。碧玉、サファイヤ、めのう、緑玉、縞(しま)めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉石、ひすい、青玉、紫水晶がそれという。
 
 まだあります。四面の城壁には、各々、三つの門があります。ぜんぶで12の門。それらがまた、各々一個の真珠で造られている、という。すさまじい巨大さ。真ん中を馬蹄形にくりぬいているんでしょうか。あるいはそういう形をした巨大な真珠なんでしょうか。

      @      @      @

 極めつけは、城郭都市の内部です。すきとおったガラスのような純金で出来ております。大通りもそれで造られている、という。絢爛豪華、目がくらみそう。

 いま、地上では、猫の目ほどの宝石を、猫目石(ねこめいし)とかいって珍重していますよね。これは何億円とか何十億円とかいってもう大変・・・。だけど、天の都の大通りは、みな透き通った純金ですよ。長さも少なくとも青森から福岡までくらいはあるでしょう。そこでは 猫目石など、道ばたの砂利 です。住民は蹴っ飛ばして歩いております。

      @      @      @

 豪華さもさることながら、天の王国は、規模においても凄いですね。地上のエルサレムは、城壁の一辺の端から端まで、観光客が散歩できる距離です。これが王国では、日本列島の長さとなる。これから推して、天の王国は、この地上世界の何倍になるか。想像してみて下さい。

 城壁の高さも日本列島の長さというんですから、もうそびえ立っているなんてもんじゃない。上方は雲のそのまた上の上。雲があればの話ですけどね。霞んで見えないなんてもんじゃないですよね。

 それだけじゃないですよ。エルサレムがあればパリだってニューヨークだってロスアンゼルスだって、さらには東京だってあるんじゃないかな。天の東京にもお寿司屋さんだってたくさんあるかも知れない。上トロ、中トロなんでもあり。この地上は創主王国の模型という思想が聖書にはありますからね。エルサレムだけではないでしょう。

 それらが全部ある超・超巨大空間が天の王国です。その国を完全統治しているのが、創造主です。

 またそこでは 死も、別れもありません 。心が傷つくことも、ハートブレーキングも鬱もない。愛と希望と喜びに満ちています。

 その王国で、王の家族、天国のロイヤルファミリーになるノウハウを聖書は示している、ということになります。創主の子、イエスを信じるものは、創主の子になれる、というのですから。創主の子というのは、一般国民、市民でなく、家族なのですから。

 聖書を読むときは、こういうKINGDOMとその原理を知ることに、焦点を置くべし。イエスは、それを知らせに来たのです。

 この世の人間の弱さとか、みにくさとかいうのに関する学びは、まあ、それもいいでしょうけど、聖書学習の最終的なゴールではありません。
 
  焦点をKINGDOMに当てます。聖書学習が真のスケール感と喜びに直結するのも、この時 です。人生も、これを眺めながら送れたらいいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.58『「まこと」とは「不変」なもの(4章)』

2005年02月06日 | ヨハネ伝解読

 ヨハネ伝に戻りましょう。

「霊とまことによって礼拝する」の、霊は聖霊であることがわかりました。では
後の方の言葉「まこと」とは何でしょうか?

 わかっているようで、わかりにくい言葉ですね。日本で「まこと」というと、真心のような感じがまずします。だから、「まことによって礼拝する」というと「真心込めて、誠心誠意に礼拝する」という風に解釈されやすい。だが、それは誤解です。

      @      @      @

 「まこと」という言葉の英語はtruthです。通常、これが真理」とか「まこと」という言葉に邦訳されています。ではtruthの本来の意味は? これは「変わらざるもの」です。それも、いい加減な変わらなさではありません。完全に変化しないのです。

 真理という訳も、そこから来ます。真理というのは、他のものを評価する際の、基準ともなるはずでしょう。そして、その基準は、不動でなければならないでしょう。相手を計るための物差しが動いていたんでは話にならない。本当は、少しでも動いてはならないものなのです。

<不変と永続は実質同じ>

 また、あるものが全く変化しないと言う属性を持っていると言うことは、それは「永遠の存在」という属性を持っていることにもつながっています。

 変わらなければ、いくら時間がたっても、未来永劫そのままで存在し続けることになるでしょう。また、変わらないものならば、そのままの状態で、永遠の過去からあったはずであります。

 だが、現実に、そんなものは存在するのでしょうか。物質はみな時と共に風化して、ついには消滅します。人の心も変化します。

<永続するのは創主から出た「言葉」>

 聖書では、非造物には永遠不変なものはない、という思想です。それは創造主の側にのみある、という存在観です。では、まこととは創造主のことか。ここではそうではありません。もっと具体的なもの。創造主から出た言葉がそれです。

 イエスは、「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父(創主)が私のうちにおられてみわざをなさっているのである」(14章10節)といっています。イエスの語る言葉は、創主の言葉なのです。

 だから、人間の口から出る言葉とは違う。人の語る言葉は、空気をふるわせる風にすぎないのが、私の言葉は

   「霊でありまたいのちである」(6章63節)

     ーーーとイエスはいっています。そして、それについてまた

 「天地は滅びます。しかし、私の言葉は決して滅びることはありません」(ルカによる福音書、21章33節)

     ーーーとも言っています。

 つまり、「まこと」とは、イエスの口から出た「言葉」に対応しているのです。それは、聖書に記録されています。そこで「霊とまことによって礼拝する」は「聖霊とイエスの言葉(聖書に記されている)の力を得て礼拝する」となります。


 だれかによって解説された言葉ではない。「聖句そのもの」を掲げて礼拝すると言うことです。これに聖霊とが相働くことによって、創主を成功裡に礼拝することが可能になる。これが、サマリアの女に対するイエスの教えでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする