「ヨハネ伝解読」、5章に入ります。
ここで、ひとこと断っておきます。
これは鹿嶋春平太流の、ヨハネ伝解読です。
みなさまは、それを一つのガイドとして、自分の納得する解釈を得るための手がかりとしてご利用下さいますことを。
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聖書は、特に細部においては、多様に解釈できる余地を持っています。そして、それぞれに一定の筋が通る解読を可能にしてくれます。
もちろん、これこそが正解、という究極の解釈はあるでしょう。我々がみなそれに到達することが出来れば、解読は正統なもの一つ、となるでしょう。
しかし、それは人間には到達できないもの、と春平太は思っています。もしも、人間の寿命が1万年くらいあったら、その可能性も出るかも知れません。しかし、各々が、たかだか百年くらいしか生きられない現状では、それは望むべくもありません。
その結果、我々人間は、究極の正解に至る途中の解読でやっていくことになります。かくして、人間は一冊の聖書から、各々がA,B,C,D,・・・と、異なった解釈を見つけ出します。社会的に見ると、複数の解釈ができあがっていることになります。
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それでいいのか?
いいのです。各々が、究極の正解を求めて解読の努力をしていけばいい。そうすれば、その過程で、沢山の知恵、知識が副産物として得られていきます。これらが各々に、知恵を与え、時にはしるしと不思議の力を与えていきます。
細部における解読が異なる人々に対しても、そのおのおのに知恵と力が与えられます。聖書はそういう本です。だから、各々が自分の頭で、その時点で自分の納得できる解読をすればいいのです。
いいだけでなく、そうすべきです。
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では、ここで示されている春平太の解釈はなにか?
それは、読者が納得のいく解読を得るための、一つのガイドと思ってくださればいいです。
これを手がかりにして、ご自分の解釈を得て行かれたらいい。そのために、一定のところまで聖書の「読み込み」を案内できたら、春平太としてはベストです。
また、ある聖句に関しては、春平太の解読に全く同意できる、という場合もあるでしょう。その時には、それをご自分の解釈とされたらいいです。
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くれぐれも、次のようなスタンスで聖書をお読みにはならないように。
「読むからには、学ぶからには、究極の正解に至らなければならない」というスタンスで。
こう思うと、人は萎縮します。意識が、思考が自由でなくなります。自分の考えていることが間違いではないか、とびくびくします。これがいけないのです。これは避けねばならないのです。
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百年くらいしか生きられない人間には、聖書解釈の究極の正解は得られません。少なくとも、これまでそうでした。
世界にはキリスト教の教派、教団がたくさんあります。それらの多くは、教団の「教理」というものを持っています。それはその教団が、「これこそが正解(正統)」としている解釈です。
もし、それが実際に究極の正解でしたら、教派は複数に分かれることはないでしょう。みんな同じ教理を持つことになる。同じ教理を持つことになれば、それらは一つの教団として合同するはずでしょう。
ところが、実際には、たくさんあり続けています。そのことが、人間には、究極の正解には至れない、ということを証明しています。
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人間には、究極の正解には至れないのです。だから基本的には、各々が、自己の納得できる解読をしていっていいのです。
そして究極の正解に至れるのではないか、という思いを捨てて下さい。それは、かえって自分を萎縮させる危険な要因になるのです。
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では、鹿嶋春平太流、「ヨハネ伝解読」。
今回より五章に入ります。
ここもヨハネならでは、の章です。全編にわたってそうですが、とりわけそうです。
イエスはここで、自分と万物の創造主との関係を詳細に説明します。
ヨハネはそれを、鮮烈に記憶していたのです。
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ヨハネはまず、38年間の長きにわたって、脚萎えのため歩けなかった人を、一言でもって癒してしまう場面を描きます。それ自体は、ヨハネが何かを言うためではありません。
問題はこれをイエスが、エルサレムの神殿の中で、安息日にやってのけたことです。
それで、ユダヤ教の僧侶たちが異議を唱えて論争になるのです。「安息日には誰もなにもしてはいけないと書いてある」、と彼らは旧約聖書を理解していたからであります。
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ところが、イエスは、自分をその「安息日を定めた創主の子」だと考えているのです。
そして~~~創主は安息日にも働いておられるのだ。そこで、自分も働く。あなたたち人間とはとは違う~~~という。それを、当たり前のように言ってのけます。
これはもう、僧侶たちには理解しようがありません。彼らはだから、二重の意味で怒ります。
安息日の掟を破ったということが第一。
自分を創造主なるゴッドと同一な存在といったこと、が第二です(18節)。
とりわけ後者、日本流に言えば「自分を神だと人間が言うこと」は、大変でした。これは創主を冒涜した罪になるのです。
これはもう罪の極致であって大変なこと、となるわけです。
だが、イエスは一向にかまわない。この機会を捉えて、自分がどんな存在であるか、を語っていきます。