「ヨハネ伝解読」5章が続きます。
いよいよイエスは、自分がどういう存在であるかを語り始めます。まず、
「自分は父のなさることを見てその通りにしているのだ」と言います(19節)。
これはすなわち、自分と創主とは同一だといっているのです。この際の同一とは、姿形が同じという意味ではありません。その思い、意識状態が同じということです。それを「一体」と言うことでもあります。そういう同一なのです。
そこでーーー
「子なる私を敬わないものは、父を敬わないことにもなる」(23節)
ーーーという言葉も出ます。そういうことになりますよね、創主とイエスとは同一であり一体だというのですから。
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続いてイエスは、「自分は一人では何事もすることは出来ない」、といいます。「裁き」をするときも、父が伝えてくださるとおりそのままに裁く。そういう同一なのだ、と。
イエスの行う裁きも、その意味において正しいことになります。聖書でいう善とは、つまるところは創主の御旨(みむね)にかなったことであり、悪とはかなわないことです。
だから、これは文句なく正しい、となるわけです。人間の証言などで裏付けする必要など全くない特別なものなのです。
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するとイエスの行う癒しはどういうことになるのでしょうか。
聖書では、癒しは「いのち」というエネルギーが患者に流れ込むことによって起きるという論理に、物理的イメージとしてはなります。そのエネルギーはどこから来るか。それは人の子の姿をとってこの世にきているイエスそれ自体から発しているのか。
そうではない、ということになります。
聖書の思想では、「いのち」は父なる創主から放射されているものです。それが、人の子イエスにそのまま流れ込み、そしてイエスはそれを患者に放出している、という図式になります。
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どうしてそんなことが可能になるか。
父と子の間に愛があるからとなります。イエスはーーー
「父が子を愛して、自らなさることの全てを、子にお示しになる」(20節)
ーーーといいます。それが創主からのイエスへの愛を示しています。そして、「人の子」イエスの方も、やはり全身全霊を込めて、創主を愛しているのです。
愛の本質とは、意識における同一化であります。一体化といってもいいでしょう。
父なる創主とイエスとが互いに愛するということによって、一体化しているのです。すると、両者の意識波動も同一になる、という図式です。
だから、いのちエネルギーもロスがほとんどない状態でイエスに流れ込んで来るというイメージに、物理的にはなります。その強烈なエネルギーをイエスはそのまま患者に放射して、癒しもしているという図式です。