前回、ここまで考えました。
ーーー教会で理想としている愛は、グレースの愛である。だが、その愛が心から出るには、創主の霊である 聖霊 が人の内に入って働かねばならない。そして、聖霊が人の内に入るには、一定のプロセスがあるーーーと。
今回は、そのプロセスを考えましょう。
<天の思いが内に留まること>
結論から言いますと、それには、人の内に「天の思い(意識)」を持った言葉が一定量、留まらねばなりません。天の思い(意識)を持った言葉とは、イエスの言葉、というのが聖書の論理です。
イエスは天の創主王国からその思いをもって、やってきた。人の姿をとってこの地上にきて、人の言葉でそれを語った、ということになっていますから。
イエスの言葉は、聖書に記録されています。記録はされていますけれど、それは沢山あります。ですから、ここでも、それらの言葉の組み合わせ、文脈を見つけ出し、教えのエッセンス、中核を見出さねばなりません。
こういう作業を神学といいます。幸いなことに、この神学が根気よくなされた結果、現代では、その中核は「救い」の教え、その約束だという点で、解読はほぼ一致しています。
これは、「愛、愛」と叫びたてている人も否定しません。
<「救い」とは幸福な「永続」>
「 救い」とは、英語のサルベーション(salvetion)の訳です。それは「人(の霊)が幸福な状態で(創造主の王国で)永続するようにされること」を意味しています。そういう風にして、霊が救われる、というわけですね。
イエスの言葉は、これを中核にして体系化されねばならない。そういう形で、心に留まることが必要です。
すると、人の心の内には、天の意識、聖なる意識の部分ができはじめるのです。そしてこの領域が一定の大きさ、深さになると、あるとき、天の聖なる霊である「聖霊」がその人の内に入るーーーそういうことになっています。
聖書では「聖(Holy)」というのは、「天の創主王国」に特有の属性であります。そして、聖霊は、文字通り、聖なる霊ですが、もう一つ、特性がある。それは、聖でないところには留まらない、ということです。
だから、聖霊に入ってもらうには、内に、一定の聖なる部分を意図的に造らねばならないわけです。ここは、人間の側に重点のある仕事なんですね。
低開発国に井戸を掘ってあげようという援助運動があります。そこでは井戸の水を、手動のポンプでくみ上げます。日本ではガッチャンポンプと呼ばれることもあります。手でガッチャン、ガッチャンと動かして汲むわけですからね。
ポンプが完成すると、水をくみ上げてくれるには、当初、ポンプに一定の水を上から入れてやることが必要です。上から注ぎながら動かしてみる。これを「迎え水」といいます。
イエスの言葉を一定量、心に留めるというのも、これに似ていますね。
<人の心理では、まず永続確信、それから幸福>
ともあれ、今見たように「救い」は、永続だけでなく、「幸福な」永続ということになっています。では、不幸な永続はあるか、というと、これが聖書ではあることになっております。
イエスの教えでは、人の霊(意識体)はどのみち永続するのです。その上で、それが幸福になる道と、不幸になる道とが説かれている。
じゃあ、その道が分岐するあたりの教えの方が、大事じゃないか、と思えそうですね。ところが、実際はそうじゃない。人がイエスの教えに対して信頼心(信仰心)を抱いていく心理プロセスはそうなってはいません。
人はまず、「自分が永続する」という教えに確信を抱く のです。そして、この確信を抱くことが、イエスの教えに信頼感を抱くのに最も困難なステップのです。
どうしてか? 人間には、霊(霊界)というものがもしあったとしても、それは見えない。肉体(物質)だけが見えるからです。
肉体は、誰の身体を見ても100年もすれば壊れて消滅しますよね。人は、幼いときから、見えるものを基盤にものを考えます。だから、人間は消滅するもの、という確信が心に出来ています。それがあったり前だとする。
その結果、人間は「永続する」という方に確信を抱くのがとても難しい状態になっているのですね。本質的には人間はみなそうでありますが、日本は世界でも、飛び抜けて無常感の深い国です。伝統的にそうできあがっているので、いっそう難しいのです。
永続の教えに確信が持てたら、次の、「幸、不幸分岐理論」は、割合スゥ~と心に入ってきます。だから、永続確信は「救い」の論理への信頼を抱くための実際上の基盤 なのです。
<しばらくは吐き出すが> @ @ @
また、この永続確信を基盤にした「救い」の教え・イエスの言葉は、当初、心に入ってもすぐに忘れます。心に留まりません。人の心に生来ある「世の霊(意識体)」が、新参者をキックアウトします。
蹴っ飛ばして放り出してしまうわけですね。こうして、言葉を吐き出します。
だが、それを根気よく繰り返しやっていると、ある時、徐々に心の内に留まり始める。蓄積が開始される。
すると、ある時、そこに聖霊が入ります。それが聖書の道理です。そして、聖霊が入れば、そこから、グレースの愛、イエスの愛も発生 するわけです。
このプロセスをたどらないと、いわゆる「無償の愛」の意識は心に生じないのです。ところが、人々はそれを省いていきなり理想の愛を求めがちなのです。聖書をよく解読しないで。
そうするとどうなるか。ここらあたりを、次回に考えましょう。
ーーー教会で理想としている愛は、グレースの愛である。だが、その愛が心から出るには、創主の霊である 聖霊 が人の内に入って働かねばならない。そして、聖霊が人の内に入るには、一定のプロセスがあるーーーと。
今回は、そのプロセスを考えましょう。
<天の思いが内に留まること>
結論から言いますと、それには、人の内に「天の思い(意識)」を持った言葉が一定量、留まらねばなりません。天の思い(意識)を持った言葉とは、イエスの言葉、というのが聖書の論理です。
イエスは天の創主王国からその思いをもって、やってきた。人の姿をとってこの地上にきて、人の言葉でそれを語った、ということになっていますから。
イエスの言葉は、聖書に記録されています。記録はされていますけれど、それは沢山あります。ですから、ここでも、それらの言葉の組み合わせ、文脈を見つけ出し、教えのエッセンス、中核を見出さねばなりません。
こういう作業を神学といいます。幸いなことに、この神学が根気よくなされた結果、現代では、その中核は「救い」の教え、その約束だという点で、解読はほぼ一致しています。
これは、「愛、愛」と叫びたてている人も否定しません。
<「救い」とは幸福な「永続」>
「 救い」とは、英語のサルベーション(salvetion)の訳です。それは「人(の霊)が幸福な状態で(創造主の王国で)永続するようにされること」を意味しています。そういう風にして、霊が救われる、というわけですね。
イエスの言葉は、これを中核にして体系化されねばならない。そういう形で、心に留まることが必要です。
すると、人の心の内には、天の意識、聖なる意識の部分ができはじめるのです。そしてこの領域が一定の大きさ、深さになると、あるとき、天の聖なる霊である「聖霊」がその人の内に入るーーーそういうことになっています。
聖書では「聖(Holy)」というのは、「天の創主王国」に特有の属性であります。そして、聖霊は、文字通り、聖なる霊ですが、もう一つ、特性がある。それは、聖でないところには留まらない、ということです。
だから、聖霊に入ってもらうには、内に、一定の聖なる部分を意図的に造らねばならないわけです。ここは、人間の側に重点のある仕事なんですね。
低開発国に井戸を掘ってあげようという援助運動があります。そこでは井戸の水を、手動のポンプでくみ上げます。日本ではガッチャンポンプと呼ばれることもあります。手でガッチャン、ガッチャンと動かして汲むわけですからね。
ポンプが完成すると、水をくみ上げてくれるには、当初、ポンプに一定の水を上から入れてやることが必要です。上から注ぎながら動かしてみる。これを「迎え水」といいます。
イエスの言葉を一定量、心に留めるというのも、これに似ていますね。
<人の心理では、まず永続確信、それから幸福>
ともあれ、今見たように「救い」は、永続だけでなく、「幸福な」永続ということになっています。では、不幸な永続はあるか、というと、これが聖書ではあることになっております。
イエスの教えでは、人の霊(意識体)はどのみち永続するのです。その上で、それが幸福になる道と、不幸になる道とが説かれている。
じゃあ、その道が分岐するあたりの教えの方が、大事じゃないか、と思えそうですね。ところが、実際はそうじゃない。人がイエスの教えに対して信頼心(信仰心)を抱いていく心理プロセスはそうなってはいません。
人はまず、「自分が永続する」という教えに確信を抱く のです。そして、この確信を抱くことが、イエスの教えに信頼感を抱くのに最も困難なステップのです。
どうしてか? 人間には、霊(霊界)というものがもしあったとしても、それは見えない。肉体(物質)だけが見えるからです。
肉体は、誰の身体を見ても100年もすれば壊れて消滅しますよね。人は、幼いときから、見えるものを基盤にものを考えます。だから、人間は消滅するもの、という確信が心に出来ています。それがあったり前だとする。
その結果、人間は「永続する」という方に確信を抱くのがとても難しい状態になっているのですね。本質的には人間はみなそうでありますが、日本は世界でも、飛び抜けて無常感の深い国です。伝統的にそうできあがっているので、いっそう難しいのです。
永続の教えに確信が持てたら、次の、「幸、不幸分岐理論」は、割合スゥ~と心に入ってきます。だから、永続確信は「救い」の論理への信頼を抱くための実際上の基盤 なのです。
<しばらくは吐き出すが> @ @ @
また、この永続確信を基盤にした「救い」の教え・イエスの言葉は、当初、心に入ってもすぐに忘れます。心に留まりません。人の心に生来ある「世の霊(意識体)」が、新参者をキックアウトします。
蹴っ飛ばして放り出してしまうわけですね。こうして、言葉を吐き出します。
だが、それを根気よく繰り返しやっていると、ある時、徐々に心の内に留まり始める。蓄積が開始される。
すると、ある時、そこに聖霊が入ります。それが聖書の道理です。そして、聖霊が入れば、そこから、グレースの愛、イエスの愛も発生 するわけです。
このプロセスをたどらないと、いわゆる「無償の愛」の意識は心に生じないのです。ところが、人々はそれを省いていきなり理想の愛を求めがちなのです。聖書をよく解読しないで。
そうするとどうなるか。ここらあたりを、次回に考えましょう。