鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

永続確信6・「永続」があって「救い」がある

2005年02月02日 | この教会の基本理念
 前回、ここまで考えました。

 ーーー教会で理想としている愛は、グレースの愛である。だが、その愛が心から出るには、創主の霊である 聖霊 が人の内に入って働かねばならない。そして、聖霊が人の内に入るには、一定のプロセスがあるーーーと。
 
 今回は、そのプロセスを考えましょう。

<天の思いが内に留まること>

 結論から言いますと、それには、人の内に「天の思い(意識)」を持った言葉が一定量、留まらねばなりません。天の思い(意識)を持った言葉とは、イエスの言葉、というのが聖書の論理です。

 イエスは天の創主王国からその思いをもって、やってきた。人の姿をとってこの地上にきて、人の言葉でそれを語った、ということになっていますから。

 イエスの言葉は、聖書に記録されています。記録はされていますけれど、それは沢山あります。ですから、ここでも、それらの言葉の組み合わせ、文脈を見つけ出し、教えのエッセンス、中核を見出さねばなりません。

 こういう作業を神学といいます。幸いなことに、この神学が根気よくなされた結果、現代では、その中核は「救い」の教え、その約束だという点で、解読はほぼ一致しています。

 これは、「愛、愛」と叫びたてている人も否定しません。

<「救い」とは幸福な「永続」>

「 救い」とは、英語のサルベーション(salvetion)の訳です。それは「人(の霊)が幸福な状態で(創造主の王国で)永続するようにされること」を意味しています。そういう風にして、霊が救われる、というわけですね。

 イエスの言葉は、これを中核にして体系化されねばならない。そういう形で、心に留まることが必要です。

 すると、人の心の内には、天の意識、聖なる意識の部分ができはじめるのです。そしてこの領域が一定の大きさ、深さになると、あるとき、天の聖なる霊である「聖霊」がその人の内に入るーーーそういうことになっています。

 聖書では「聖(Holy)」というのは、「天の創主王国」に特有の属性であります。そして、聖霊は、文字通り、聖なる霊ですが、もう一つ、特性がある。それは、聖でないところには留まらない、ということです。

 だから、聖霊に入ってもらうには、内に、一定の聖なる部分を意図的に造らねばならないわけです。ここは、人間の側に重点のある仕事なんですね。

 低開発国に井戸を掘ってあげようという援助運動があります。そこでは井戸の水を、手動のポンプでくみ上げます。日本ではガッチャンポンプと呼ばれることもあります。手でガッチャン、ガッチャンと動かして汲むわけですからね。

 ポンプが完成すると、水をくみ上げてくれるには、当初、ポンプに一定の水を上から入れてやることが必要です。上から注ぎながら動かしてみる。これを「迎え水」といいます。

 イエスの言葉を一定量、心に留めるというのも、これに似ていますね。


<人の心理では、まず永続確信、それから幸福>

ともあれ、今見たように「救い」は、永続だけでなく、「幸福な」永続ということになっています。では、不幸な永続はあるか、というと、これが聖書ではあることになっております。

 イエスの教えでは、人の霊(意識体)はどのみち永続するのです。その上で、それが幸福になる道と、不幸になる道とが説かれている。

 じゃあ、その道が分岐するあたりの教えの方が、大事じゃないか、と思えそうですね。ところが、実際はそうじゃない。人がイエスの教えに対して信頼心(信仰心)を抱いていく心理プロセスはそうなってはいません。

   人はまず、「自分が永続する」という教えに確信を抱く  のです。そして、この確信を抱くことが、イエスの教えに信頼感を抱くのに最も困難なステップのです。

 どうしてか? 人間には、霊(霊界)というものがもしあったとしても、それは見えない。肉体(物質)だけが見えるからです。

 肉体は、誰の身体を見ても100年もすれば壊れて消滅しますよね。人は、幼いときから、見えるものを基盤にものを考えます。だから、人間は消滅するもの、という確信が心に出来ています。それがあったり前だとする。

 その結果、人間は「永続する」という方に確信を抱くのがとても難しい状態になっているのですね。本質的には人間はみなそうでありますが、日本は世界でも、飛び抜けて無常感の深い国です。伝統的にそうできあがっているので、いっそう難しいのです。

 永続の教えに確信が持てたら、次の、「幸、不幸分岐理論」は、割合スゥ~と心に入ってきます。だから、永続確信は「救い」の論理への信頼を抱くための実際上の基盤 なのです。

<しばらくは吐き出すが>      @      @      @

 また、この永続確信を基盤にした「救い」の教え・イエスの言葉は、当初、心に入ってもすぐに忘れます。心に留まりません。人の心に生来ある「世の霊(意識体)」が、新参者をキックアウトします。

 蹴っ飛ばして放り出してしまうわけですね。こうして、言葉を吐き出します。

 だが、それを根気よく繰り返しやっていると、ある時、徐々に心の内に留まり始める。蓄積が開始される。

 すると、ある時、そこに聖霊が入ります。それが聖書の道理です。そして、聖霊が入れば、そこから、グレースの愛、イエスの愛も発生 するわけです。

 このプロセスをたどらないと、いわゆる「無償の愛」の意識は心に生じないのです。ところが、人々はそれを省いていきなり理想の愛を求めがちなのです。聖書をよく解読しないで。

 そうするとどうなるか。ここらあたりを、次回に考えましょう。
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Vol. 56 『霊とまことによって創主を拝する(4章)』

2005年02月02日 | ヨハネ伝解読

 「サマリア女は自堕落女か?」の検討は、前回で終わりました。次に進みます。

 4章には、もうひとつ、とても意味深い聖句があります。

 「創主を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければならない」

      ーーーというイエスの言葉がそれです。それはサマリアの女の

 「まことの礼拝すべき場所とは、どこでしょうか。ユダヤ人はエルサレムだといいますし、サマリア人はこの山だといっていますが」

  ーーーという旨の質問にたいするイエスの究極的な答えであります。

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 この聖句では、「霊とまこと」とは何であるかがポイントです。まず霊ーーーこれは、聖霊です。一般的な霊ではない。

 英語ではそれは、頭文字が大文字で書かれています。Spiritです。spiritではない。英語で頭文字が大文字のスピリットは、聖霊のことです。これを「霊」と訳した邦訳聖書が誤訳をしているのです。

 日本では、こういう初歩的な誤訳がなされたままで最近まで来ています。そしてその背景には、日本の聖書理解の文字通りの日本的特徴があります。

 日本の聖書理解は明治維新以来、霊的なものを省いたものになっているのです。(その結果、日本キリスト教は「愛の道徳教」に変貌してしまっています)

 だから、聖霊というものの役割もーーー霊ですからーーーその存在も働きも無視してしまうことになる。ところが、聖書では聖霊というのは決定的な役割を果たす存在なんですね。

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 聖霊は、創造主の霊です。父なる創造主の思いを知っているのです。人間の察知できないような創主の思いもわかっている。

 人は、だから、聖霊の助けを受けなければならない。聖霊の意識波動の影響を受けなければ、創主の思いの深いところを共鳴受信することが出来ないことになるのですね。

 そして、礼拝とは、創主と交流しつつこれを拝することです。相手の思いもわからずに、独り善がりで拝したって、創主は「わたしとは関係ないよ」というだけでしょう。

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 だから礼拝が成功するためには、聖霊の助けを受けることが不可欠となります。だが、サマリアの女にイエスが語っている時点では、まだ、その聖霊は地上にきていないのです。聖霊は、イエスが十字架で死に、復活し、天に昇った後にあまねく送られてくることになっています。

 そのときには、創主の思いを受信できるのは、特別に霊感が開けた預言者だけでなくなる。一般人がおのおの直接キャッチできるようになる。イエスはそれを「そういうときがくる」という約束でもって示しているわけです。

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