鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<ヨハネ伝解読:臨時版>「解読の一つを読む」という姿勢で

2005年02月04日 | ヨハネ伝解読
 ようこそ、『ヨハネ伝解読』に。
 歓迎致します。

 ご訪問下さった方に、希望することがあります。それは

 「いろんな解釈の中の、一解釈として楽しむ」

   という姿勢を維持してお読みください、ということです。

 もちろん、鹿嶋春平太自身は、“これが正解ではないか”、という思い入れを込めて書いています。

 しかし、聖書というのは、底知れない本でありまして、我々個々人の予想を超えて多様な解釈が出来てくるものです。

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 春平太は、いま、米国南部のバイブルベルトとかディープサウスかと呼ばれるところにいます。
 ここは、「一つの解読に最終的な権威をあたえない、聖書の言葉そのものに最終権威をおく」という原理が深く浸透している地域です。

 これを聖書主義(Biblicism)といいますが(特定の解読に最終的な権威をおくいきかたは、教理主義といいます)、そのいきかたが普及しています。

 聖書は多様に解釈できますので、聖書の言葉に最終的な権威をおけば、結局、「あらゆる解釈を責めない、罰しない、容認する」ことにならざるをえません。

 ここはそういう土壌です。その上に、実に様々な解釈の華が咲いています。その多様性の実体は、言葉では言い尽くせません。現場をみないと、納得が難しいです。

 実に様々な解釈が、それなりに筋をなして、理屈の体系をつくっております。「そういう角度では浅い解釈しか成り立たないだろう」と従来春平太が予想してきていた見方がいくつかあります。ところが、それが冊子になるほどの体系を構成しているのです。

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 聖書の最後に『黙示録』という書物が収められています。これは、ヨハネという使徒(このヨハネ伝の著者と同一人物)が、延々と受けた幻を記録したものです。「天使がこれを与えた」と、この書物の聖句には記されています。

 黙示録の解読は、その天使の与えた幻の示すところを解釈すること、と春平太は思っていました。解釈は色々出来ようが、それが文字通り「天使がヨハネに見せた幻」という点は、動かないもの、と思ってきました。

 ところが、ここディープサウスには、「これはヨハネがそういう比喩的な言い方でもって、自分が言いたいことを述べたもの」という立場での解読がありました。「当時キリスト教は禁教だったので、ヨハネはそういう方法をとったのだ」という。

 この神学講義を聴いたとき、春平太は目を見張りました。そういう神学者、牧師さんが立派に禄をえて暮らしています。そういう立場の教会もあります。

 後に春平太は、そういう解読が一冊になった本を手にしました。それに一定の読者がいることを知ったときには、文字通り天を仰いで仰天しました。

 ・・・そんなもんです。

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 こういう解釈は霊的でない、という人もいるでしょう。春平太もそう思います。そういう教会には霊的な力があまり現れない、という人もいるでしょう。実際そう観察されます。

 けれども、教会員たちには、聖書という書物への信頼も、イエスへの信頼もあります。自由なフレンドシップも愛の奉仕もあります。

 そして、特筆すべきは彼等の知性が驚くほど活性化していることです。おそらくこれが、アメリカ一般市民の高い知性のベースを形成しているでしょう。

「聖書の解釈法を権力でもって強制しない。完全に自由にしておく」

 この原理が、米国人の知的活力の源になっています。聖書を自由に解読し、見解を提示し合う、という方法は、人の知性を活性化する最大の手法ではないでしょうか。おそらくそれ以上の方法はないのでは、と春平太は観察しています。

 
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それはそれでやらせておく、言わせておく・・・。

 この「ヨハネ伝解読」も、基本的にはその姿勢でお読み下さることを希望します。その上で、ある部分が自分の思うところと一致していたら、それをご自分の確信にしていかれるのもいいでしょう。

 しかし、基本姿勢は、一解釈を知的・論理的に楽しむという、ものにしてください。気楽な姿勢、軽いタッチがいいです。

 最後に一言。
 一日に、少しずつでいいです。できれば、ご自分の聖書を開いて、聖句をみながら読み下さることをお勧めします。そうすると知性活性化の効果は、(ただ、このブログをよむだけに比べて)10倍になります。

 場合によっては、百倍になる可能性もあります。

 では、始めましょう・・・。

                    鹿嶋春平太

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Vol.57『チョーヨンギ牧師の貢献』

2005年02月04日 | ヨハネ伝解読


 日本の福音界での聖霊について、少し余談をしましょう。

 聖霊という言葉は、やっと今日では日本の福音関係者の目覚めるところとなりつつあります。それにつけては、チョー・ヨンギという韓国の牧師さんの働きが大きかったです。

 ソウルでの大教会を主管する牧師です。彼は1980年代初頭に、日本人を福音化するという使命感に燃えて、大がかりな日本宣教を開始しました。

 テレビの力も使わねば、と「幸福への招待」という伝道番組を全国的に放映した。他方で、毎月のように信徒を集めた特別伝道集会(これを聖会という)を各地で開催していった。

 日本の牧師さんを集めて、教職者セミナーも開き、教育した。自分の教会の支教会も日本に各地に造っていった。そういう、一大キャンペーンのような活動が、10年間なされました。

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 当時、日本のクリスチャン人口は70万人くらい、成人の1%にも満ちませんでした。チョー師はこれを10年間で10%にすると目標提示して進みました。

 成れば1000万人位になります。彼は、これを「1千万人救霊」と見事にキャッチフレーズ化して、日本信徒の前に掲げて活動しました。

 10年がたちました。日本のクリスチャン人口は、どうなったか? 依然として1%を超えていませんでした。ほとんど変化なし。チョー師は「もう日本のことは日本の牧師さんでやって下さい」といって、引き上げてしまいました。

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 けれども、副産物がありました。チョー牧師の働きによって、日本の牧者たちの「霊アレルギー」が顕著に薄れたのです。それ以前、彼らの大半は、霊という言葉を聞いただけで「要注意!」と緊張するという状態でした。

 日本宣教を開始するにつけ、チョー牧師は日本の牧師さんたちにもかなり気を遣ったようです。最初の仕事は彼らの理解を得ることでした。

 多数の彼らを大きなホテルに招待して(伊豆だったと聞いています。大変な費用だったことでしょう)自己紹介し、自分の教理と日本で目指すところを説教し、了解を求めました。

 多くの日本牧師は、半信半疑でやってきたようです。韓国で大教会を主管しているというが、大丈夫か、異端ではないか。その当たりをチェックするのを主目的で来た人が多かったそうです。

 大会議場で集会がもたれました。そこでチョー牧師が説教で霊という言葉を使う。すると来会者は「霊といったぞ!」と互いに警戒心を確認しあう。まあ、そんな水準に当時の日本の福音界はありました。

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 10年たったら、それが変わっていました。もう、霊といっても怖がらなくなった。聖霊という言葉を、身を縮めることなく聞くようになった。自ら積極的に口に出す人、それを求める人も増えてきました。このことに対する、チョーヨンギ牧師の貢献は、大きかったわけです。

 その結果、我が国も聖霊を認める状況になりました。そんなわけで、「霊とまことによって」という聖句は、まったく無視される、ということはなくなりました。同時に、霊とは聖霊のことなんだよ、と解説しても、何をいっているかわからない、という人も少なくなりました。
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永続確信4・「世の愛」と「天の愛」

2005年02月04日 | この教会の基本理念
 永続確信の教えがあると思って教会に行きます。ところが、日本ではそれに出会うことはめったにない。むしろ、そこではほとんどの場合、「愛」「愛・・」とやっている。

 ーーー前回、そう申しました。今回はそれを考えましょう。

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 「キリスト教は愛の宗教」という言葉を、耳にされた方もすくなくないでしょう。 たしかに、「愛」はキリスト教に必須な、そして大きな要素です。しかし、いきなりそれをもちだすと、いろいろ無理がでてくるのです。

 日本の教会では、伝統的に、99%あるいは、それ以上が「イエスの教えの中核は愛」としているようにみえます。ところがそれは、知的にも、霊的にも雑なとらえ方なのです。

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 聖書の論理では、愛には二種類のものが明確に含まれています。

 第一は、この地上の世の感覚から出る「世的な愛 」です。
これは、我々が持って生まれたもの、そのままで自然に出る感情であり情熱です。

 第二は、創造主の霊である聖霊から出る「聖なる愛」とでも言う愛です。
 聖霊から出る愛は天の王国における愛でもありますから「天的な(heavenly)愛 」といってもいいでしょう。

 第一の、「世的な愛」は、今述べたように我々が持って生まれた自然な愛情感覚を指します。我々は人を愛しますが、その愛の裏面には、愛する相手の主体を縛りたい、独占したい、自分の思うようにしたい、奪いたい、という感情が伴っているのが普通です。

 「愛は惜しみなく奪う」という言葉もありますが、そのことを指しています。この世の愛は「惜しみなく与えるだけではないよ」といっているわけです。実際我々は、人を愛し、独占できないと嫉妬もします。

<「天の創主王国」の愛>

 第二の「天的な愛」は、文字通り、天の王国(Kingdom of Heaven)に存在する愛です。これは、裏面の「相手に代償を求める」という感情のない愛です。ただ、一方的に与えるだけ。

 聖書では、これをグレース(grace)といっています。これをギリシャ語を使って「アガペの愛」ということもあります。がともあれ、日本では、これを邦訳するのに困ったのではないかと思われます。結局「恵み」という言葉を当てています。苦しいですね。

 ともあれ、何も代償を欲しないで愛することなんて出来るか? できません。この地上の人間には出来ません。だから「天的な愛」なのです。

 そして、聖書ではイエスがこれを天の王国から持ってきた、という思想なのです。それで彼は、人間の救いのために、一方的に十字架死していのちをあたえた、と解されています。

 ここも、そう単純ではないのですが、まあ、そうしておきましょう。ともあれ、ですから日本の教会で「愛、愛・・・」と言っている愛は、そういう グレースの愛 ・アガペの愛です。これを心に抱き、実践することを理想として言っているのです。

 イエスが示してくれたこの愛を、心に抱こう。行おう。イエスに似る努力を重ね、それを行おう!と。

 ところが、それがそう簡単ではないのです。次回にそれを考えましょう。
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