ようこそ、『ヨハネ伝解読』に。
歓迎致します。
ご訪問下さった方に、希望することがあります。それは
「いろんな解釈の中の、一解釈として楽しむ」
という姿勢を維持してお読みください、ということです。
もちろん、鹿嶋春平太自身は、“これが正解ではないか”、という思い入れを込めて書いています。
しかし、聖書というのは、底知れない本でありまして、我々個々人の予想を超えて多様な解釈が出来てくるものです。
@ @ @
春平太は、いま、米国南部のバイブルベルトとかディープサウスかと呼ばれるところにいます。
ここは、「一つの解読に最終的な権威をあたえない、聖書の言葉そのものに最終権威をおく」という原理が深く浸透している地域です。
これを聖書主義(Biblicism)といいますが(特定の解読に最終的な権威をおくいきかたは、教理主義といいます)、そのいきかたが普及しています。
聖書は多様に解釈できますので、聖書の言葉に最終的な権威をおけば、結局、「あらゆる解釈を責めない、罰しない、容認する」ことにならざるをえません。
ここはそういう土壌です。その上に、実に様々な解釈の華が咲いています。その多様性の実体は、言葉では言い尽くせません。現場をみないと、納得が難しいです。
実に様々な解釈が、それなりに筋をなして、理屈の体系をつくっております。「そういう角度では浅い解釈しか成り立たないだろう」と従来春平太が予想してきていた見方がいくつかあります。ところが、それが冊子になるほどの体系を構成しているのです。
@ @ @
聖書の最後に『黙示録』という書物が収められています。これは、ヨハネという使徒(このヨハネ伝の著者と同一人物)が、延々と受けた幻を記録したものです。「天使がこれを与えた」と、この書物の聖句には記されています。
黙示録の解読は、その天使の与えた幻の示すところを解釈すること、と春平太は思っていました。解釈は色々出来ようが、それが文字通り「天使がヨハネに見せた幻」という点は、動かないもの、と思ってきました。
ところが、ここディープサウスには、「これはヨハネがそういう比喩的な言い方でもって、自分が言いたいことを述べたもの」という立場での解読がありました。「当時キリスト教は禁教だったので、ヨハネはそういう方法をとったのだ」という。
この神学講義を聴いたとき、春平太は目を見張りました。そういう神学者、牧師さんが立派に禄をえて暮らしています。そういう立場の教会もあります。
後に春平太は、そういう解読が一冊になった本を手にしました。それに一定の読者がいることを知ったときには、文字通り天を仰いで仰天しました。
・・・そんなもんです。
@ @ @
こういう解釈は霊的でない、という人もいるでしょう。春平太もそう思います。そういう教会には霊的な力があまり現れない、という人もいるでしょう。実際そう観察されます。
けれども、教会員たちには、聖書という書物への信頼も、イエスへの信頼もあります。自由なフレンドシップも愛の奉仕もあります。
そして、特筆すべきは彼等の知性が驚くほど活性化していることです。おそらくこれが、アメリカ一般市民の高い知性のベースを形成しているでしょう。
「聖書の解釈法を権力でもって強制しない。完全に自由にしておく」
この原理が、米国人の知的活力の源になっています。聖書を自由に解読し、見解を提示し合う、という方法は、人の知性を活性化する最大の手法ではないでしょうか。おそらくそれ以上の方法はないのでは、と春平太は観察しています。
@ @ @
それはそれでやらせておく、言わせておく・・・。
この「ヨハネ伝解読」も、基本的にはその姿勢でお読み下さることを希望します。その上で、ある部分が自分の思うところと一致していたら、それをご自分の確信にしていかれるのもいいでしょう。
しかし、基本姿勢は、一解釈を知的・論理的に楽しむという、ものにしてください。気楽な姿勢、軽いタッチがいいです。
最後に一言。
一日に、少しずつでいいです。できれば、ご自分の聖書を開いて、聖句をみながら読み下さることをお勧めします。そうすると知性活性化の効果は、(ただ、このブログをよむだけに比べて)10倍になります。
場合によっては、百倍になる可能性もあります。
では、始めましょう・・・。
鹿嶋春平太
歓迎致します。
ご訪問下さった方に、希望することがあります。それは
「いろんな解釈の中の、一解釈として楽しむ」
という姿勢を維持してお読みください、ということです。
もちろん、鹿嶋春平太自身は、“これが正解ではないか”、という思い入れを込めて書いています。
しかし、聖書というのは、底知れない本でありまして、我々個々人の予想を超えて多様な解釈が出来てくるものです。
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春平太は、いま、米国南部のバイブルベルトとかディープサウスかと呼ばれるところにいます。
ここは、「一つの解読に最終的な権威をあたえない、聖書の言葉そのものに最終権威をおく」という原理が深く浸透している地域です。
これを聖書主義(Biblicism)といいますが(特定の解読に最終的な権威をおくいきかたは、教理主義といいます)、そのいきかたが普及しています。
聖書は多様に解釈できますので、聖書の言葉に最終的な権威をおけば、結局、「あらゆる解釈を責めない、罰しない、容認する」ことにならざるをえません。
ここはそういう土壌です。その上に、実に様々な解釈の華が咲いています。その多様性の実体は、言葉では言い尽くせません。現場をみないと、納得が難しいです。
実に様々な解釈が、それなりに筋をなして、理屈の体系をつくっております。「そういう角度では浅い解釈しか成り立たないだろう」と従来春平太が予想してきていた見方がいくつかあります。ところが、それが冊子になるほどの体系を構成しているのです。
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聖書の最後に『黙示録』という書物が収められています。これは、ヨハネという使徒(このヨハネ伝の著者と同一人物)が、延々と受けた幻を記録したものです。「天使がこれを与えた」と、この書物の聖句には記されています。
黙示録の解読は、その天使の与えた幻の示すところを解釈すること、と春平太は思っていました。解釈は色々出来ようが、それが文字通り「天使がヨハネに見せた幻」という点は、動かないもの、と思ってきました。
ところが、ここディープサウスには、「これはヨハネがそういう比喩的な言い方でもって、自分が言いたいことを述べたもの」という立場での解読がありました。「当時キリスト教は禁教だったので、ヨハネはそういう方法をとったのだ」という。
この神学講義を聴いたとき、春平太は目を見張りました。そういう神学者、牧師さんが立派に禄をえて暮らしています。そういう立場の教会もあります。
後に春平太は、そういう解読が一冊になった本を手にしました。それに一定の読者がいることを知ったときには、文字通り天を仰いで仰天しました。
・・・そんなもんです。
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こういう解釈は霊的でない、という人もいるでしょう。春平太もそう思います。そういう教会には霊的な力があまり現れない、という人もいるでしょう。実際そう観察されます。
けれども、教会員たちには、聖書という書物への信頼も、イエスへの信頼もあります。自由なフレンドシップも愛の奉仕もあります。
そして、特筆すべきは彼等の知性が驚くほど活性化していることです。おそらくこれが、アメリカ一般市民の高い知性のベースを形成しているでしょう。
「聖書の解釈法を権力でもって強制しない。完全に自由にしておく」
この原理が、米国人の知的活力の源になっています。聖書を自由に解読し、見解を提示し合う、という方法は、人の知性を活性化する最大の手法ではないでしょうか。おそらくそれ以上の方法はないのでは、と春平太は観察しています。
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それはそれでやらせておく、言わせておく・・・。
この「ヨハネ伝解読」も、基本的にはその姿勢でお読み下さることを希望します。その上で、ある部分が自分の思うところと一致していたら、それをご自分の確信にしていかれるのもいいでしょう。
しかし、基本姿勢は、一解釈を知的・論理的に楽しむという、ものにしてください。気楽な姿勢、軽いタッチがいいです。
最後に一言。
一日に、少しずつでいいです。できれば、ご自分の聖書を開いて、聖句をみながら読み下さることをお勧めします。そうすると知性活性化の効果は、(ただ、このブログをよむだけに比べて)10倍になります。
場合によっては、百倍になる可能性もあります。
では、始めましょう・・・。
鹿嶋春平太