「播く人と刈り取る人とは別になる」ことをイエスが「真理だ」と言っていることには留意すべきです。真理というのは「いつの時代でも変わらずそうであるもの」という意味の言葉です。
ビルゲイツも、他人の播いた種を刈り取りました。巨万の富を築きました。これはまことに真理であるように思われます。
これに関連して、いろんなことが考えられます。春平太が思うひとつは、人間の能力というのは歴史的に見ると部分的で有限な働きしかできないものだ、ということです。
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その時点では、当人がそれこそすべてと思って、やっていることがよくあります。ところが、歴史が過ぎて振り返ってみると、実は部分的な仕事をさせられているにすぎないことが多いです。
福音伝道のためからすると、結構マイナスになることをしていても、それが他面において、後々に種としてプラスの役割を果たすようにもなっている、ということもあります。刈り取れなかったが、播く人としての機能は果たしたというようなことが。
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カトリック教団のしたことについて、そういえそうな事例があります。
いま現在ではカトリックと言えば、そのなしてきた信仰上の悪行が少なからず連想されるようになっています。プロテスタント側の人によって、そうした事柄が取りざたされてきたからでしょう。
だが、よくみますと、問題視される行為のほとんどは、392年に国教になってからなされています。国家権力をもち管理者の側に立ったことから来ている。
(ここではまだ詳論できませんが、聖書信仰というのは、「世」の権力の側に立つと、イエスの教えた本来のものから徐々に離れて変質していく傾向を持つのです。)
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カトリック教団では、公認宗教(313年にコンスタンチヌス帝が決定)の時代には、結構プラスのこともしています。その一つは、イエス神性論(イエスは創造主の子であるという聖書解釈)を確定的にたことです。
公認された時期のカトリック教団は、自ら国家の一機関として行使できるような国家権力は手中に収めていませんでした。その状態で、皇帝が後ろ盾として様々な支持・援助を与えていました。
イエス神性論を正統なものとして社会的に確定させたのは、この状況があったが故になった面が大きいです。
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イエス神性論が正統な解釈であると、決定することは、カトリック公会議で行えます。だが、その結論を安定させるには、く人々に対して正統であると公示し、長いことその状態で保持しなければなりません。人々がそれになれて、当たり前と感じるようになるまで。
「イエスはやっぱり人間だったのではないか」、という神学は人間の情から自然に出るものです。創主の子であるという神性論は、自然の情には反する見解なのです。
だから、公会議で決定した後にでも、放っておけば、イエス人間論は周期的に出てきたでしょう。そしてこの見解は、支持する人の数から言えば、時の流れの中で多数派になっていく公算の高いものでした。
カトリック教団は、これを「異端である」と押さえ続けました。広く長く禁じつづけました。ここには一定の強引さはあります。こういうことは、皇帝に援助され、支持されているという背景があったから出来たことでしたから。でも、結果としては、これで神性論は全欧州に確定しました。
もちろん、国教になって国家の宗教庁としての権力を持ってからも、禁止はし続けました。これはもう、「ある程度強引」なんてものでなく、強引そのものです。だが、ことイエス神性論に関しては、公認時代に確定された、とみられます。
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宗教改革というのは、カトリック内部の僧侶が行ったカトリック改革運動でした。これを契機にプロテスタントという勢力が生まれ、多くの新しいプロテスタント教派が出来ました。これは福音の普及には、大きな前進でした。
けれども、ルター、カルヴァンをはじめとする改革者たちは、みなイエス神性論が正統という前提に立ってやっています。その上で、免罪符販売などの教団本部の行動を、「次の」問題としてやり玉に挙げています。
これは、「イエス神性論については、これはもう文句のつけようのない大前提である」という状況ができあがっていたから出来たことです。それが宗教改革の種です。で、それは、というと、カトリック教団が4世紀に播いているんですね。プロテスタント改革者たちは、その実を刈り取ったのでした。
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イエスが「人間の子」では福音の論理は通りません。そのことは、聖書を読めば比較適容易にわかるものです。ところが当時は聖書という書物が一般人のもとに行き渡ってはいませんでした。カトリックも聖書が普及しないような政策をとっていましたが、印刷術も紙の製法もあまり発達していませんでした。
イエス人間論は、周期的に出てきてもおかしくはなかったのです。だが、カトリックは、それを抑えることはしたのですね。そういうプラスの種はまきました。
後に、今日問題にされているようなことは色々しますけどね。それもまた、後の人が手直しすることになっていきます。