鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.62『カトリック教団、イエス神性論の種をまく(4章)』

2005年02月12日 | ヨハネ伝解読

 「播く人と刈り取る人とは別になる」ことをイエスが「真理だ」と言っていることには留意すべきです。真理というのは「いつの時代でも変わらずそうであるもの」という意味の言葉です。

 ビルゲイツも、他人の播いた種を刈り取りました。巨万の富を築きました。これはまことに真理であるように思われます。

 これに関連して、いろんなことが考えられます。春平太が思うひとつは、人間の能力というのは歴史的に見ると部分的で有限な働きしかできないものだ、ということです。

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 その時点では、当人がそれこそすべてと思って、やっていることがよくあります。ところが、歴史が過ぎて振り返ってみると、実は部分的な仕事をさせられているにすぎないことが多いです。

 福音伝道のためからすると、結構マイナスになることをしていても、それが他面において、後々に種としてプラスの役割を果たすようにもなっている、ということもあります。刈り取れなかったが、播く人としての機能は果たしたというようなことが。

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 カトリック教団のしたことについて、そういえそうな事例があります。

 いま現在ではカトリックと言えば、そのなしてきた信仰上の悪行が少なからず連想されるようになっています。プロテスタント側の人によって、そうした事柄が取りざたされてきたからでしょう。

 だが、よくみますと、問題視される行為のほとんどは、392年に国教になってからなされています。国家権力をもち管理者の側に立ったことから来ている。

 (ここではまだ詳論できませんが、聖書信仰というのは、「世」の権力の側に立つと、イエスの教えた本来のものから徐々に離れて変質していく傾向を持つのです。)

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 カトリック教団では、公認宗教(313年にコンスタンチヌス帝が決定)の時代には、結構プラスのこともしています。その一つは、イエス神性論(イエスは創造主の子であるという聖書解釈)を確定的にたことです。

 公認された時期のカトリック教団は、自ら国家の一機関として行使できるような国家権力は手中に収めていませんでした。その状態で、皇帝が後ろ盾として様々な支持・援助を与えていました。

 イエス神性論を正統なものとして社会的に確定させたのは、この状況があったが故になった面が大きいです。

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 イエス神性論が正統な解釈であると、決定することは、カトリック公会議で行えます。だが、その結論を安定させるには、く人々に対して正統であると公示し、長いことその状態で保持しなければなりません。人々がそれになれて、当たり前と感じるようになるまで。

 「イエスはやっぱり人間だったのではないか」、という神学は人間の情から自然に出るものです。創主の子であるという神性論は、自然の情には反する見解なのです。

 だから、公会議で決定した後にでも、放っておけば、イエス人間論は周期的に出てきたでしょう。そしてこの見解は、支持する人の数から言えば、時の流れの中で多数派になっていく公算の高いものでした。

 カトリック教団は、これを「異端である」と押さえ続けました。広く長く禁じつづけました。ここには一定の強引さはあります。こういうことは、皇帝に援助され、支持されているという背景があったから出来たことでしたから。でも、結果としては、これで神性論は全欧州に確定しました。

 もちろん、国教になって国家の宗教庁としての権力を持ってからも、禁止はし続けました。これはもう、「ある程度強引」なんてものでなく、強引そのものです。だが、ことイエス神性論に関しては、公認時代に確定された、とみられます。

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 宗教改革というのは、カトリック内部の僧侶が行ったカトリック改革運動でした。これを契機にプロテスタントという勢力が生まれ、多くの新しいプロテスタント教派が出来ました。これは福音の普及には、大きな前進でした。

 けれども、ルター、カルヴァンをはじめとする改革者たちは、みなイエス神性論が正統という前提に立ってやっています。その上で、免罪符販売などの教団本部の行動を、「次の」問題としてやり玉に挙げています。

 これは、「イエス神性論については、これはもう文句のつけようのない大前提である」という状況ができあがっていたから出来たことです。それが宗教改革の種です。で、それは、というと、カトリック教団が4世紀に播いているんですね。プロテスタント改革者たちは、その実を刈り取ったのでした。

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 イエスが「人間の子」では福音の論理は通りません。そのことは、聖書を読めば比較適容易にわかるものです。ところが当時は聖書という書物が一般人のもとに行き渡ってはいませんでした。カトリックも聖書が普及しないような政策をとっていましたが、印刷術も紙の製法もあまり発達していませんでした。

 イエス人間論は、周期的に出てきてもおかしくはなかったのです。だが、カトリックは、それを抑えることはしたのですね。そういうプラスの種はまきました。

 後に、今日問題にされているようなことは色々しますけどね。それもまた、後の人が手直しすることになっていきます。


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Vol.61『播く者と、刈り取る者は別になる(4章)』

2005年02月12日 | ヨハネ伝解読
 4章37節に入ります。
 ここでイエスは

 「一人が播き、別の者が刈り取るというのは真理だ」

       と言っています。

これも大変深い知恵ではないでしょうか。前述のように聖書で真理というのは、「いつの時代でも」そうだ、と言うことです。真理の原義は「変わらないもの」であるからです。

 パソコンソフトのビル・ゲイツも、その仕組みを開発したのではありません。他者が発明したものを、利益になるビジネスにしたてあげた。こうして、収益を刈り取っています。

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 このケースでは、「刈り取る」は弟子たちです。刈り取られる対象は、人です。イエスの教えることを聞くことによって、それが真理だ悟る人を刈り集めると言うことです。

 では、「播いたもの」とは誰でしょうか。それは、旧約時代の人々、とりわけ、預言者たちだったでしょう。彼らは、創主からの啓示を受けて、それを書きとどめました。旧約聖書は、それを集めた編集した本ということになっています。

 そこには、まだ、イエスの教えそのものは記されていなませんでした。イエスが教えることを、比喩で示しているにすぎませんでした。いうなれば、影絵のように示していたのです。

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 影絵は、いろいろに解釈できるでしょう。リスの頭の影絵は、角度によってはウサギにも見えるし、犬にも見えますよね。しかも、リスの毛の色や毛並みは影絵には現れません。そういうものです。

 けれども、旧約時代のユダヤ教僧侶たちは、そのウサギや犬が創主からのメッセージのすべてだと思って、信仰活動をしていきました。そうやって、イエスからすると間違った方向に、どんどん進んできていました。一般ユダヤ人は、素人ですから当然それに従っていました。

 そうしたなかで、唯一、霊感の豊かな預言者だけが、ここで示されているのはリス(イエス)であると悟りました。イエスが後に教えるような真の意味を悟っていました。

 預言者たちは、それを言った。そこで、ウサギや犬しか見えない僧侶や民衆は怒りました。それで彼等に殺されました。預言者のほとんどは、こうして殺されてきているわけです。

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 ところが後に、イエスが現れて真理をそのまま率直に明かしてしまう。彼はそれを、旧約聖書を解き明かす形で示していく。これが聖書全体の構成になっています。

 となれば、霊感を受けて旧約聖書を造った預言者たちは、その種をまいたことになるでしょう。このように、播く人と刈る人とは別であり、あなた方はこれから、他者の播いたものを刈り取るのだよ、とイエスはここで教えたのでした。
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