クリスマスシーズンも終わり、日本では、紅白歌合戦とか正月が続きますね。
でも、このチャーチではイエスの話が続きます。
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前回、いわゆる「主の祈り」における御国(天国)の理解について述べました。
「御国を来たらせたまえ」の後に続く聖句は、一見、個々独立の願いを示しているようにみえるが、
そうではないのではないか。
それらは天国の持つ属性であって、御国が来れば、そのパワーで実現するものだとも解せられる。
そして鹿嶋は、後者の解釈の方が正しそうに思う、といいました。
<パラダイスって天国じゃないの?>
だが、鹿嶋の話は何か漠然としていて、ピンと来ないという人が多いのではないかと思います。
直接的な理由は、天国の属性をそのまま羅列して明治したりするような聖句がないところにあるでしょうが、
その前に天国自体の全体像が読者の意識の中で漠然としていることがあります。
たとえば、ほとんどの聖書読者は、天国はパラダイスと同じだと思っている。
だが、聖句をよく見ると、そうではないことがわかってきます。
<「パラダイス」は解読がいる>
まず、パラダイスという言葉は、一度だけしか出ていません。
イエスが十字架にかけられたとき、その左右に各々一人の罪人が十字架にかけられています。
そのうちイエスを受容した一人が「この人には罪がない」という。
イエスはそれを聞いて、「今日、あなたは、私と共にパラダイスにいるでしょう」といいます。
(ルカ伝16:23)
このパラダイスについて、聖書では何も説明がありません。
そこで我々は~イエスを受容した人がイエスと共に行くのだから、きっといいところだろう、これは天国のことだろう~と漠然と思ってしまいます。
<イエスは「まだ父の元に昇っていない」>
だが、イエスは三日目に復活して、まずマグダラのマリアの前に現れています。
そして、マリアが狂喜して「先生!」とすがりつこうとするとイエスは言います。
「私にすがりついてはいけない、私はまだ父のもとに登っていないのだから」
(ヨハネ伝20:17)
父の元、とは天の御国です。
この時点でイエスは、天国に昇って地上に帰ってきてはいないのです。
となれば、イエスが、かの罪人を連れて行ったパラダイスは、天国ではない道理になります。
でも、十字架死の当日に「今日あなたは私と共にパラダイスにいるでしょう」
といった。
(ルカ伝16:23)
だったら、イエスはすでにその罪人の霊を連れて、そこには行ってきていることになる。
そして三日目に復活して、こんどはマリアの前にいる。
繰り返しますが、パラダイスは天国ではないのです。
<宇宙の中のどこかには違いない>
では御国でなければ、どこか。
もう一度、聖書の空間理念を見ましょう。
この図で考えたら、それは、天国の下方の宇宙の中のどこかでしかありえないでしょう。
パラダイスは天国ではなく、宇宙の中のどこかにあるはずなのです。
もちろん、それは「いいところ」ではあるでしょう。
鹿嶋が推察するところ、それは「イエスを受け入れた人の霊が、最後の審判までの間に安息するところ」
ではないかな。
<宇宙には他の安息空間も?>
宇宙の中には、他にも推察される空間があります。
ルカ伝に記されている「アブラハムの懐」もそうでしょう。
貧乏人ラザロが死後いったと思われるところです。
これもなにか、「安息の空間」という感じがしますね。
ハデス(火のあるところ)もそうでしょう。
生前ラザロに哀れみを書けなかった金持ちの霊が、死後行ったと思われるところです。
これもルカ伝の同じ聖句箇所に記されています。
(以上、「ルカ伝」16:19-31)
だが、このパラダイスと区別して天国の理念を、クリスチャンでさえ多くは抱いていない。
事程左様に、「天国」のイメージは人々の中では漠然としたままです。
(「極楽」のことだと思っている人もニッポンには沢山いるよ)
一つには、それ故に、「御国を来たらせたまえ」に続く聖句を、御国の属性だとイメージすることが難しいのです。
御国のイメージについては、もう少し考えてみましょう。
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