もう少しご報告がてらに「聖句主義」を紹介する本の原稿について述べてみます
聖句主義は日本ではマイナーであるキリスト教というテーマの中の、
さらにマイナーであるところの「聖書をどう扱うか」というテーマである。
こんなものは日本では売れない~出版担当編集者のこういった見解を前回に示しました。
これについては若干の議論をしたときもありました。今回はそれを示してみます。
鹿嶋の見解を以下にまとめて記します~
~「だが、聖句主義活動は長い間、歴史に記されないできた活動で、マイナーだったが、
実は現代の民主主義制度という大きな事項の発生源になっている。
聖句主義活動は人に聖書のただ一つの正統な解読は人間には見出せない、
ということをしかと体験させる。だから個々人の聖句解釈を自由にする。
その体験から出た制度が近代民主主義だ。
もしも人間にただ一つの正統な答えが見出せるならば、多数決などいらない。
その真理でもって社会のことを決定すればいいからだ。
それがわからないから、なるべく多くの人が求める決定をしようとして多数決をするのだ。
このように民主主義制度は聖句主義思想を土台にしているのだ。
このような由来を歴史を通して深く知らないと、結局国民はそのやり方を「なぞる」だけになる。
そういう浅い理解でもって運用する民主主義制度は、真の機能をしない。
今の日本に見るようにだ。だから聖句主義の歴史を知ることは今の日本に大切なのだ。」
「正統な解釈が人間に見出せるという前提でしているのが教理主義活動だ。
だがそれは結果的に人の意識を縛ってしまう。
人間には「真理は一つ」という本能的な期待の思いがあるから、
その前提に知らず知らずに心を奪われてしまう。
日本の教会でそれに意識を縛られ苦しんでいる信徒は多い。
信徒だけでなく、牧師さんも自分の解釈が違っていないか心底でびくびくしながらやっている。
無自覚の内に「正解が一つある」という教理主義的思想にとらわれているからだ。
これが聖句主義という行き方を知ることによって自覚できるようになり、打開できる。」
「日本ではキリスト教会での問題はマイナーだが、問題は教会だけではない。
「真理は一つ」の通念は教育界をも縛り傷つけている。
教科書の知識が絶対の真理だとして教えられるものだから、
生徒は自分でものを考えることができなくされている。
個人の聖句解読を自由にして、
それでもってグループがばらばらになることのない状態を知れば、教育も変わるのだ。
聖句主義史の知識は、それ自体はマイナーであっても、
現代日本のメジャーな問題につながっているのだ。
こういう風に、物事を深い源から知ることが、
西洋の知識を「なぞっているだけ」から日本人を解放する。
日本人が付け焼き刃でない、深い哲学をもつ最上の契機にも
聖句主義史の知識はなるのだ。」
「 北関東大災害によって、日本人の姿勢も変わってきている。
深い原理を知ろうという人が増えてきている。
「鹿嶋春平太チャーチ」のアクセスも更新しないのに増加傾向をたどっている。」
~こんな見解を鹿嶋は述べました。
対して編集者はこう述べました~
「本作りをしていると事態は逆に感じる。
大災害を契機に日本人はますます手っ取り早くノウハウを求めるようになってきている。
そういう本しか売れなくなっている」
~彼は残念そう不本意そうに語りました。
実感のこもった声はそれが事実であることを告げていました。
この流れを一冊の本で変えることなど不可能、と
その表情は語っていました。
>日本人はますます手っ取り早くノウハウを求めるようになってきている。
とのことですが、これは、何においても中途半端な本が売れなくなったということではないかと、私は理解しました。変な言い方かもしれませんが、ノウハウものの世界であっても、即、効果が出るような本物でないとダメということでしょう。 結局は、半端でない著者の体験がにじみ出るぐらいの価値あるものだけが評価されるということだと考えます。
鹿嶋先生が、滅多なことでめげたりするとはとても思えませんけど、前向きに気持ちを切り替えられて、他の誰も書けなかった本を出版されることを夢見ております。
ご返事遅れました。
励ましのお言葉、力づけられました。
評価は様々な面からなされえるでしょうが、
「他の誰にも書けなかった本」になることは確実です。
問題は、それ故に、編集する人自体からして、
内容がただちには理解しがたい点の多いものである、
というところにあります。
しかし、励ましを支えにして根気よく営業を続けます。
現世問題とのつなぎ、大分できてきました。
もう少しつとめてみます。
ありがとうございました。