しばらくぶりの更新です。
イエスのインストラクションは続きますが、本日は一転して厳しい話になります。
BGMは今回もmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「もしこの世が諸君を憎んだら、世は先に私を憎んだということを知っておくんだよ。
諸君が世に属していたら、世は諸君を愛するはずだ。
だが、諸君は世のものではない。わたしが世から(天の側に)選び出したものだ。
だから、世は諸君を憎むんだよ。
従者は主人以上のものではない、と私が言った言葉を覚えておくんだよ。
世の人々が私(主人)を迫害したら諸君をも迫害する。
もしも彼らが私の言葉を心に保ったら、諸君の言葉も保つんだけどね」
(15章18~20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前節までイエスは、弟子たちの伝道は必ず実を結ぶと述べてきました。
つまるところ弟子たちの努力によってそうなるのではなく、
父なる創主がそうなさるというのですから、もう絶対です。
だから諸君はとにかく割れないで一つにまとまっていなさいよ、と命じました。
楽しいなぁ、嬉しいなぁ~。
弟子たちの伝道によって産まれる新弟子は、最後の最後まで働く弟子となる。
その種の新弟子がどんどん出来たら、教団も大きくなって世の人々に尊敬されるようになる。
弟子たちはその上に立って君臨する大幹部となって、左うちわの生活が送れる夢もある。
結構ずくめです。
<一転迫害が始まるよ>
ところがイエスはここで一転して厳しい話に入ります。
そうなったら次に、世の人々はかならず弟子たちを迫害するというのです。
「ヨハネ伝解読」今回はその部分です。
それは又きついじゃないの、どうしてそんなになっちゃうのか。
ここには聖書思想の大原則であるところの、「天と世との絶対的対立関係」が位置しています。
「聖書の空間図式」をご覧下さい。
これが出来上がるストーリーはこれまでも述べましたが、次のごとくです。
創造主は無限空間である自らの懐の内に、自己の王国「天(国)」をつくって
「みずからの名」をおき、御子イエスをその相続人とします。
そして無数の天使を造り、その名を賛美させます。
ところがある天使長が反逆する。
「俺も王国が欲しい、賛美して欲しい」とその天の一角でもって
配下の天使たちに自分の名を賛美させ始めます。
<暗闇の牢屋:宇宙>
そこでイエスは天の一カ所に暗闇の空間を作り、他の天使長たちに命じて
彼らをそこに追い落とし閉じ込めてしまいます。
かくしてそこは、反逆した天使たちを閉じ込めた牢屋になるのです。
そして反逆した天地長は変質して悪魔となり、配下の天使たちは「天の諸々の悪霊」となります。
悪魔はその牢屋の中の牢名主的な存在として、牢屋を支配します。
で、この牢屋が実は天文学で言う宇宙にあたるというのが、聖書の論理構造です。
そしてこの宇宙の中に創主は地球を造り、その地上に人間を造るという構図です。
旧約聖書の創世記の記述はそこから始まっています。
ですから宇宙の中のことは、当面牢名主である悪魔に支配権があります。
「この世」とは、その地上のことをいっていまして、そこもまた宇宙(牢屋)の中にありますから、
この世は基本的に、悪魔の影響下にあることになります。
世の人々の意識も、実はそうなっているのだ、というのが聖書の基本思想です。
<理屈抜きの憎悪>
「人の子」となったイエスは、そういう「世」に「天の論理」をもって天国からきたという構図です。
彼はこの世に天の論理(義)を持ってきて弟子たちに受容させ、
その弟子たちの伝道によってそれを受け入れる人々の輪がこれから広がっていく。
牢名主・悪魔(世)にとってこれが本性上気持ちのいいものであるはずがありません。
もう本能的に、理屈抜きに、憎み迫害することになる。
『諸君が世に属していたら、世は諸君を愛するはずだ。
だが、諸君は世のものではない。わたしが世から(天の側に)選び出したものだ。
だから、世は諸君を憎むんだよ』はそれをいっています。
世に属していない、ということは天に属しているということです。
聖書では二者択一でして、そのどちらでもないというグレーゾーンはありませんから、
世は必ず弟子たちを憎むことになります。
また「諸君たちに向けられる憎しみは、根底的にわたし(イエス)に対するものなのだよ」
とイエスは言います。
そして「諸君は私に従うものだから、次いで諸君を必ず憎むことになっていくのだ」と。
本日の聖句『もしこの世が諸君を憎んだら、世は先に私を憎んだということを知っておくんだよ』
というのはそれを言っています。
ですから『もしも彼らが私の言葉を心に保ったら、諸君の言葉も保つんだけどね』
の意味はもう明らかですよね。
「そうした中でも、諸君の言葉を受け入れるものもでるが、
その人々はまず私(イエス)の言葉を受け入れてそうするんだよ」ということです。
天の論理と悪魔に染まった世の論理とは、根本的に対立関係にある。
それ故に、世はイエスを根本的に憎むように出来てしまっている。
この原理を背景に、イエスは弟子たちに福音伝道をした後に起きることを
前もってインストラクションしています。
これで弟子たちは、その場になってオタオタすることがないでしょう。
この世では状況理解は最大の精神鎮静剤、癒し剤になるのでしょうか。
イエスのインストラクションは、先の先まで周到ですね。
イエスのインストラクションは続きますが、本日は一転して厳しい話になります。
BGMは今回もmariさんのこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「もしこの世が諸君を憎んだら、世は先に私を憎んだということを知っておくんだよ。
諸君が世に属していたら、世は諸君を愛するはずだ。
だが、諸君は世のものではない。わたしが世から(天の側に)選び出したものだ。
だから、世は諸君を憎むんだよ。
従者は主人以上のものではない、と私が言った言葉を覚えておくんだよ。
世の人々が私(主人)を迫害したら諸君をも迫害する。
もしも彼らが私の言葉を心に保ったら、諸君の言葉も保つんだけどね」
(15章18~20節)
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前節までイエスは、弟子たちの伝道は必ず実を結ぶと述べてきました。
つまるところ弟子たちの努力によってそうなるのではなく、
父なる創主がそうなさるというのですから、もう絶対です。
だから諸君はとにかく割れないで一つにまとまっていなさいよ、と命じました。
楽しいなぁ、嬉しいなぁ~。
弟子たちの伝道によって産まれる新弟子は、最後の最後まで働く弟子となる。
その種の新弟子がどんどん出来たら、教団も大きくなって世の人々に尊敬されるようになる。
弟子たちはその上に立って君臨する大幹部となって、左うちわの生活が送れる夢もある。
結構ずくめです。
<一転迫害が始まるよ>
ところがイエスはここで一転して厳しい話に入ります。
そうなったら次に、世の人々はかならず弟子たちを迫害するというのです。
「ヨハネ伝解読」今回はその部分です。
それは又きついじゃないの、どうしてそんなになっちゃうのか。
ここには聖書思想の大原則であるところの、「天と世との絶対的対立関係」が位置しています。
「聖書の空間図式」をご覧下さい。
これが出来上がるストーリーはこれまでも述べましたが、次のごとくです。
創造主は無限空間である自らの懐の内に、自己の王国「天(国)」をつくって
「みずからの名」をおき、御子イエスをその相続人とします。
そして無数の天使を造り、その名を賛美させます。
ところがある天使長が反逆する。
「俺も王国が欲しい、賛美して欲しい」とその天の一角でもって
配下の天使たちに自分の名を賛美させ始めます。
<暗闇の牢屋:宇宙>
そこでイエスは天の一カ所に暗闇の空間を作り、他の天使長たちに命じて
彼らをそこに追い落とし閉じ込めてしまいます。
かくしてそこは、反逆した天使たちを閉じ込めた牢屋になるのです。
そして反逆した天地長は変質して悪魔となり、配下の天使たちは「天の諸々の悪霊」となります。
悪魔はその牢屋の中の牢名主的な存在として、牢屋を支配します。
で、この牢屋が実は天文学で言う宇宙にあたるというのが、聖書の論理構造です。
そしてこの宇宙の中に創主は地球を造り、その地上に人間を造るという構図です。
旧約聖書の創世記の記述はそこから始まっています。
ですから宇宙の中のことは、当面牢名主である悪魔に支配権があります。
「この世」とは、その地上のことをいっていまして、そこもまた宇宙(牢屋)の中にありますから、
この世は基本的に、悪魔の影響下にあることになります。
世の人々の意識も、実はそうなっているのだ、というのが聖書の基本思想です。
<理屈抜きの憎悪>
「人の子」となったイエスは、そういう「世」に「天の論理」をもって天国からきたという構図です。
彼はこの世に天の論理(義)を持ってきて弟子たちに受容させ、
その弟子たちの伝道によってそれを受け入れる人々の輪がこれから広がっていく。
牢名主・悪魔(世)にとってこれが本性上気持ちのいいものであるはずがありません。
もう本能的に、理屈抜きに、憎み迫害することになる。
『諸君が世に属していたら、世は諸君を愛するはずだ。
だが、諸君は世のものではない。わたしが世から(天の側に)選び出したものだ。
だから、世は諸君を憎むんだよ』はそれをいっています。
世に属していない、ということは天に属しているということです。
聖書では二者択一でして、そのどちらでもないというグレーゾーンはありませんから、
世は必ず弟子たちを憎むことになります。
また「諸君たちに向けられる憎しみは、根底的にわたし(イエス)に対するものなのだよ」
とイエスは言います。
そして「諸君は私に従うものだから、次いで諸君を必ず憎むことになっていくのだ」と。
本日の聖句『もしこの世が諸君を憎んだら、世は先に私を憎んだということを知っておくんだよ』
というのはそれを言っています。
ですから『もしも彼らが私の言葉を心に保ったら、諸君の言葉も保つんだけどね』
の意味はもう明らかですよね。
「そうした中でも、諸君の言葉を受け入れるものもでるが、
その人々はまず私(イエス)の言葉を受け入れてそうするんだよ」ということです。
天の論理と悪魔に染まった世の論理とは、根本的に対立関係にある。
それ故に、世はイエスを根本的に憎むように出来てしまっている。
この原理を背景に、イエスは弟子たちに福音伝道をした後に起きることを
前もってインストラクションしています。
これで弟子たちは、その場になってオタオタすることがないでしょう。
この世では状況理解は最大の精神鎮静剤、癒し剤になるのでしょうか。
イエスのインストラクションは、先の先まで周到ですね。
たのしみに待ってました。