ヨハネ15章の聖句の解読を始めよう。
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「諸君が私に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~だったよね。
夢のある巨大な聖句だ。
こういう巨大な思想は、一つ一つブレークダウンして考えていくのがいい。
<「わたし」は「わたしのことば」>
まず冒頭の「諸君が私に留まり」の「私」については、結論的に言っておく。
この「わたし」は「私(イエス)の言葉」を意味する。
前の8章に、実質上同じことを言っている聖句がある。
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「諸君が私の言葉に留まるなら、諸君は私の弟子となります・・・」
(ヨハネによる福音書、8章32節)
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~がそれだ。
15章ではイエスは、もう同じ言葉を繰り返すことはしない。
「わたしのことば」を「私に」と略称している。
(ついでに「私の弟子になる」うんぬんも省略している)
<難問は「わたし(の言葉)にとどまる」から>
それはそれでいい。
難問は「私(のことば)に留まる・・・」の「留まる」から始まる。
これは鹿嶋の手の内にある英訳聖書では、アバイド(abide in )となっている。
「住まう」という意味だ。
でも、そうすると「イエスの言葉の中に住まうとはどういうことだ」との疑問が連なって出てくる。
「言葉の中に住む」なんて、物理的にはイメージしがたいからね。
<量子物理学が助けの手を>
こうして解読は、はやばやと行き詰まってしまう。
だが、それを打破してくれる物理学理論がある。
量子物理学(量子力学)の思想がそれだ。
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それ以前の物理学では、物質は究極的には「粒子」(つぶつぶのもの)によってなっている~と考えていた。
ニュートン物理学のニュートンも、アインシュタイン物理学のアインシュタインもそう考えてきた。
ところが量子物理学では、物質の究極的な根源は波動であることを明かしたのだ。
<物質の根源は波動>
どういう思想かを簡単に言うと~
従来、物質を構成するものとして原子が発見されていた。
次に、原子は陽子や中性子や電子でなっていることもわかった。
そこでこれらが究極の構成要素と考えられ、素粒子と呼ばれた。
素「粒子」だからつぶつぶの物質だ。
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ところが、後に量子物理学者と呼ばれるようになる人々は、素粒子の一つである光子(こうし)についてある実験~「二重スリット実験」と呼ばれる~をした。
そしてそれは粒子でもあり、波動でもあることを発見した。
「~でもあり、~でもある」というのは解りづらいね。
この両者の関係は、こう理解したらいい。
すなわち、根源は波動(振動:バイブレーション)だ~と。
そしてその波動の海の中に、振動が凝集する領域もある。
それが(つぶつぶの塊)と感じられるもの、すなわち粒子だ、と。
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そしてその振動の海が量子(クオンタム:quantum)と名付けられた。
これが量子という物質の風景である。
<言葉も波動ならば・・>
さ~あ、そうすると福音(聖句)の理解に画期的な世界が開けてくる。
そもそも、人間が「見えない世界のことがら」についての理解が出来るというのは、それを物理的にイメージ出来るということだ。
この理解の領域が、量子力学の思想によって大幅に広がるのだ。
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たとえば、聖書に繰り返し現れる「言葉が物質を変化させる」という思想も物理的にイメージ出来るようになる。
イエスの言葉は(人間の言葉も)波動を発している。
これは量子力学以前から明らかになっていることだ。
それに加えて、物質の根源が波動であるとなったら、それが言葉によって影響されるのはごく当然な道理となる。
波動が波動に影響を与えるのは当然だから。
<イエスが「癒やすとき」言葉を発したのも>
「新約聖書」には、イエスが人を癒やしたり生き返らせたりするとき「言葉を発している」場面が沢山記録されている。
(この聖句事例は『誰もが聖書を読むために』新潮選書、にまとめられている)
イエスが「歩け」と言葉を発すると脚萎えが歩き出す。
「目よ開け」というと、盲目者が見えるようになる。
これを従来牧師さんたちは「イエス様の不思議な力によります。信仰で受け止めなさい」などと教えてきた。
「まだ信じないのですか! 信じなさい! キィー!」とかもやってきた。
ところが脚や眼球の根源が波動だとなれば、理解は換わってくるよ。
イエスの発した言葉の波動(創造神の強烈な波動)が、脚や眼球の根源的な構成物である波動に影響した~となる。
影響を受けて、脚の筋肉や眼球を構成していた波動が変化し、肉体組織が再創造された~という理解が可能になる。
実にわかりやすい。
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・・・イエスの巨大な言葉「わたし(のことば)の内に住まう」を吟味しようとして、そのための前段階の量子力学の説明にスペースを費やしてしまった。
それでいい。
この物理学理論は、これからも、イエスの巨大な言葉の理解を助け続けるからだ。
今回はこれまでにするが、冒頭の聖句の吟味解読は、次回にも続くよ。
この聖句は、取り組んだら離してはならない言葉なのだ。
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