鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

4.マックス・ウェーバーの追体験手法

2018年10月20日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
<自己の内的感覚がベース>
 

前回のフロイトの精神図式は、彼が脳神経系だけでなく、意識体をも視野に入れて人間心理を見ていることを示していた。そして彼は後者の「意識」に主眼を置いて心の問題を明かそうとしていく。

ではフロイトや聖書の精神理論を適用すれば、鬱心理の問題も明かされるかというとそうはいかない。理論というのはモデル(模型)ともいうのだが、これは対象のある局面を拡大してみるのに役立つメガネのようなものだ。

理論モデルを的確に使うには、それを人間心理の全体像のなかに位置づけていなければならない。そしてこの全体像をわれわれは自分の意識を内省することによって、漠然ながらも感知している。

我々は普段日常生活のなかで、そういう認識作業をやっている。その時々に自分の心を内省し、感触する。それらを一般化して、人間心理に関する種々の一般知識を得ている。全体像もまたそうやって得ている。

他者の心を知るときにも、自己の内的世界を基盤にしている。我々はそれを自分の心の場に投影させて、「自分だったらどう感じるだろうか」と思案する。自分を内省してえていた知識を手がかりにしながら推察する。
心理認識に於いては、自己の内的世界が最も確実な、第一次的な経験素材になるのだ。

鬱心理の解明に、フロイト理論を使うときにも同様だ。
理論を使うにはまず理解せねばならないが、その理解を得る場合にも、彼の言わんとしていることを自己の内的経験知識の場に持ち込むことになる。そうして自己の内にある人間知識と照応させつつそれを行うしかない。

実際のところフロイトも聖書もその理論は深淵だ。だが、自己知識がたとえ十分でなくても、それと照応させているという自覚は心に保ち続ける必要がある。その自覚を放念すると、理論を援用しているうちに、心理に関する思考は他者の造ったその理論に流されていってしまう。すると以後、表皮的で上っ面で言葉を転がすだけの運動に、思考はなってしまう。
 
 

<追体験の手法>
 

とはいえ、フロイト理論と照応させられる程に、自分の内的心理知識を洗練させていくのは容易ではない。これをなんの助けもなく各々白紙からやれ、といわれたら我々は途方に暮れる。

だが幸いなことに、その手引きを遺しておいてくれた社会経済学者がいる。マルクスと並ぶ社会科学の大物、マックス・ウェーバーがその人で、彼はほとんどストレートな内的経験感覚だけでもって人類の歴史を把握し分析した。
 
 
彼はその方法に追体験(ついたいけん)という名を付けた。歴史事象を、それに関与する人間の心理を追体験し動機の意味理解をすることによって、認識することを試みた。
そしてその手法の有用性を多大な成果でもって示した。『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』『古代文化没落論』『職業としての政治』をはじめとする諸作は読むものを圧倒するが、同時に、追体験作業の素晴らしい練習帳になってくれている。


 
<誰もが日常していること>
 
学問業績のなかで言われるといかめしいが、ウェーバーの追体験は我々生身の人間が日頃生活の中でしている心的作業だ。

我々は悲しむ人に同情するとき、その人の心に自分の心を寄り添わせて、その心理に共鳴・同化してわかろうとする。類似の内的経験をもった共鳴箱が自分の心にもあることを期待して、共鳴するのを待つ。

共鳴・同化がなったと察知すると、それを内省感触して、相手の悲しみを知る。それを日常用語で言うと「同情(情を同じくする)」となるが、追体験とはそれと同じ原理の作業である。
 
ウェーバーは、この手法を過去の歴史上の人物の心理認識に適用した。登場人物をめぐる背景の情報を収集し、自らがその中の主人公とイメージする。
彼は「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」との名言を遺している。ローマ史を認識する際、ジュリアス・シーザーになったとイメージし瞑想すればよいとする。時とともに共感・同化がなっていき、その人と近似的な心理が自分の内に生成する。これを内省・感知して歴史は理解できる。彼はこの方法でウェーバー歴史学を確立した。

ウェーバーが残してくれた業績は、我々の歴史認識、人間認識の貴重な練習帳になっている。
 
 
 

<歴史小説家もやってること>
 
ウェーバーが彼の「理解の社会学」を造り上げた追体験という手法は、実は歴史小説家が常用している方法でもある。司馬遼太郎も坂本龍馬をめぐる歴史情報を収集し、そのイメージ中に自分をおいて、龍馬の心理を描いた。

歴史事象を超えて「創作した」環境情報の中における人物の心理認識も同じだ。藤沢周平も山本周五郎も、時代小説を描くに想像上の藩をイメージし、そのなかに想像上の登場人物をおいた。そして追体験手法でその心理認識をし、彼らの行動を描いた。

彼らの深い追体験に案内されて、読者は人間心情を学び、人の意志を学び、それを味わい楽しんだ。多くの人が代金を支払って、映画化された作品を見に劇場に足を運んだ。TVスポンサーはまた費用をかけて彼らの小説をドラマ化し放映した。
 
 
 
<まず追体験手法で>
 
 
鬱心理の構造をさぐるにも、まずは日常的な追体験感覚で考察に入るべきだ。誰かが造った理論を援用するにも、まずそういう準備作業があるのが好ましい。

また援用している間にも、常時、日常的「常識感覚」と照応させているべきだ。

次回には追体験的常識感覚によって、鬱心理を鳥瞰図・全体観の中に位置づけてみよう。



 
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