今回は~
「私(イエス)のことばが諸君の内に留まる」だ。
聖句では「留まれば」となっているが、ともあれこの「言葉が(諸君の)内に留まる」という事態について、吟味しておく。
全体の聖句はこれだったね~。
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「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます。
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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<「もやもや」のままで>
ここでは「諸君が私の内に留まり、かつ、私が諸君の内に留まる」といっている。
これってわからんよね。
この思想はわれわれの日常感覚では、わからない。
なのに、そのままで、キリスト教会はやってきた。
そういう、「もやもや」を含めながらやってきてることは、「キリスト教はわからん・・・」という印象を一層強めている。
<波動体は弾力的>
これは従来の物理学を援用しても、物質的にイメージすることが困難だ。
ニュートン物理学でも、アインシュタイン物理学でも、「物質」は、粒子(つぶつぶのもの)が組み合わさってできていると考えられたからね。
その大きさは固定的なんだ。
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ところが量子力学(量子論)はこれを物理的にイメージできるようにしてくれた。
量子論は物質の根源が「波動」であることを見出した。
すると物質は波動の凝集体であることになる。
(量子論学者には「波束(波の束)」などと呼ぶ人もいるようだ)
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すると、物質を構成する波動たちの凝集の度合いは大きくなったり、小さくなったりすると考えられる。
それにつれて、凝集体は小さくなったり、大きくなったりする。
凝集体(物質)は弾力的なのだね。
であれば、(大きくなって)他の波動体を包含したり、(小さくなって)その波動体の中に住まわったりすることも出来るはずだ。
つまり、互いに「相手を含み、かつ、相手の中にいる」ことができることになる。
<創造神も様態は「波動の凝集体」>
弟子たち(諸君)の意識も波動の凝集体だ。
他方、創造神も意識体であって、その様態は人間と同じく、波動の凝集体と考えられる。
もちろん、被造物と違って、みずから波動を放射することのできる意識体だろう。
だが、創造神イエスもまたその様態は波動の凝集体だ。
だから、「諸君が私の内に住まい」かつ「私が諸君の内に住まう」ということも可能になるはずだ。
<繰り返し出てくる表現>
こういうたぐいの表現(思想)は、新約聖書に何度も何度も出てくる。
イエスの「父が私におられ、私が父にいる」(ヨハネによる福音書、10章38節)もそうだ。
量子論のおかげで我々はそれを、物理的にイメージできるようになったのだ。
今回はここまでにしよう。
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