後の世代の我々にとって、福音書は、復活のイエスを認識する際の、文字資料でもある。
この文章によって、弟子たちが目にした復活のイエス・・・この姿に匹敵するような姿を見ることが出来るか。
筆者はそれを追っている。
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その考察に入る前に、学問である歴史学の認識方法をみておこう。
文献資料によって過去の人物や出来事を客観的でリアルに認識する方法は、歴史学の基底課題だ。
<ウェーバーの方法>
マルクスと並んで世界最大の歴史学者とされてきたマックス・ウェーバーもその方法を考察した。
歴史上の人物を認識する鍵は、当人の心情把握にある。彼はその方法を、「追体験」による「動機の意味理解」だとしている。
<追体験>
そこではまず歴史資料を熟読して、対象者が置かれた環境状況を入念にイメージする。
次いで、自分がその中の対象者となった気持ちになる。
そうしていると自分の感情が動く。それを内省して自覚する。
そしてそれを対象者の感情の動きだと認識して追っていく。
この対象者の内的体験を、自分の心で追っていくのが「追体験」だ。
<動機の意味理解>
それに併行して、その自分の心情の動きを、対象者が置かれた歴史環境と関連付ける。
こういう歴史理解が「動機の意味理解」だ。
ウェーバーはこれが歴史認識のベストな方法だと考え、「シーザーを理解するのにシーザーになる必要はない」との名言を残している。
<役者だって>
学問的に言うと難しく聞こえるが、それに類した心的作業は、俳優(役者)もしていることだ。
彼らは与えられた台本を読んで、自分が演じる役の人物がおかれた環境状況を想像する。
そして、その時々のその役の人物の心情を、自分が当人になった気持ちになってイメージ(追体験)し、演技する。
その仕事を、深く豊かになす人が、名優と呼ばれる。
<司馬遼太郎の方法>
歴史作家(小説家)も同じだ。司馬遼太郎が坂本龍馬を描く際にも、龍馬がおかれたその時々の状況を資料を読み込んで想像する。
そして、自分がその中で龍馬になった気持ちになって、自分の心の動きを内省観察する。これを龍馬の心情として物語に描く。
<歴史学者特有の仕事>
といっても、役者や小説家の仕事は、歴史学者と全く同じではない。
歴史学は社会科学の一部だから、彼らは(社会)科学者だ。
科学者は客観性を求められる。
彼らには、歴史資料と自分の推測を、経験事実で常に検証する義務がある。
俳優や小説家にはそれはない。彼らは基本的に、想像を自由に巡らすことができるのだ。
(続きます)
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