前回までの複数回、筆者のテーマは迷走してきた。
振り返ってみると、筆者は、イエスの復活を弟子を初めとする人間が「五感認識した時点」に着目した。
それが世界に福音が本格的に始動した時点だと直感した。
目撃者たちは、突然、「イエスは復活した。私はその証人だ」と死を恐れることなく語り始めた。
こうして、福音は述べ伝えられ始めた。
<同時代人は復活体をみている>
それを知って、筆者は考え始めた。
~そのイエスの復活を、弟子たちは実際に復活体を目で見て認知できた。
人々はそれをイエスの伝記(福音書)に書き残してくれた。
ありがたいが、問題が残った。
~以後の人間は、イエスの復活を福音書の記述文で知るのみだ。
文章によって人はどの程度イエスの復活に確信を持つことが出来るか。
弟子たちと匹敵するように、実在感を持てるか。
イエスの復活体は眼前に浮上しうるか。
<聖霊と軽くは言うが>
牧師さんらは「聖霊がそれをしてくれる」と言葉では言う。
だが、聖霊を受けることは、そんなに容易ではない。
そもそも、聖霊を受けるには、イエスの復活への確信がなければならない。
そして、そういう「前段階の確信」は、五感認識によって得るものだ。
五感認識が先なのだ。
<奇跡も五感認知させるもの>
しるし(奇跡)についてもそうだ。
人はしるしをみて「(創造)神は生きていると実感できる」と言う。
だから、宣教に奇跡は必要だと。
だが、その奇跡を「みる」のは、五感による。
五感認知は、先行的な役割を果たし続けるのだ。
<統一教会問題が浮上>
筆者は、イエスの復活認知についても、五感的な認識を知ろうとした。
その考察の途中で、安倍さんが銃殺され、(旧)統一教会問題が突然マスメディアで一大テーマとなって浮上した。
統一教会の教義上の特質も、いずれはイエス復活の五感認知の問題を探求する中で、考察課題に入ってくる。
そこで、この機会にそれを論じておこうと、脇道に入ってしまった。
<教会の思考停止機関化>
それが一段落しつつあるときに、FBで富田さんが「キリスト教会の思考停止機関化」の問題を提示された。
その提起の仕方が見事だった。
筆者は、これもまた出発点のテーマの議論に、いずれ含まれてくる課題だ、とまた脇道に入った。
脇道の脇道だ。
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振り返れば、筆者は、ついつい時々の感情の流れに沿って、議論を展開してきた。
定年退官者生活が、そういう気分任せの行動を誘っているのかもしれない。
だが、それも一段落がついた。
次回からは、出発点の問題に立ち返って、考察を再開しようと思う。
(続きます)
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