(写真はカルバンの住居があった地を示す看板。
先回の写真「カルヴァン通り」は坂道になっている。
標識のある地点から少し登ると住居跡地に到着する。
看板が埋め込まれている塀の内側を入り口から覗くと、
3階建てくらいのアパートのような建物があった。
かつてそこにカルバンの住居があったという)
「最後の晩餐」におけるイエスの、弟子たちへの最後のインストラクション、さらに次に進みます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「その日が来た時、諸君は、私が父(創造主)の内にいること、
また諸君(自身が)私の内にいること、
そして、私が諸君の内にいることを知るでしょう」(14章20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うわぁ~難しい! イエスの教えはどんどん深くなっていきますね。
でもとにかく何とか追ってみましょう。
まず「その日」というのは、前回に述べた日、すなわち
「諸君(弟子たち)が私(イエス)が生きていることを知って、
自分たちも生きようと立ち上がっていく日」です。
問題は、「誰かが誰かの“内に”いる」ということの意味ですね。
<「内にいる」は精神的なこと>
ここで「内に」と訳された言葉の原語のギリシャ語はεν(大文字ではΕΝ)で「エン」と発音します
(個々の語の発音はε、Εが「イプシロン」、ν、Νが「ニュー」)。
対応するローマ字に転換すると「en」となるのですが、
意味は英語のinに相当します。そこで英訳聖書では通常、inとなっています。
英語のinという語は、「中に」、「内に」、「おいて」など、色んな意味を持っていますよね。
文章の中では単に「に」と訳されているケースもあります。
が、いずれにしても、結構漠然とした言葉です。
これを、難しいこの聖句で使うのですから、ますます漠然とした気配になります。
鹿嶋はこれをとりあえず「うちに」とか、より具体的には「中に」と定めて考えてみようと思います。
まずこの聖句で、「内に」とか「中に」とかいうのが、物理的な意味でないことは明らかでしょう。
物理的なものが他者の内に存在したり、同時にまた他者が自分の中に存在する、などというのは不可能だからです。
ならば話は精神的・霊的なことでしょうね。
<イエスが雰囲気実体として心に生成>
そこでまず考えやすいところで、「霊的な意味で、イエスが弟子たちの内にいる」とはどういうことかについて~。
これを考えるに2月17日の記事、
Vol.212『言葉、イメージ断片、意識実体』(14~17章解読の基底知識・1)
~~の知識を援用しましょう。
ここで鹿嶋は、人の心の中(脳神経系)には言葉という信号によってイメージ断片が作られ、
それを契機として胸の内に実体感覚が生成することを示しました。
ベルグソンという哲学者は、この感覚の生成が実在を認識した状態であると考えています。
そしてその認識は雰囲気として認識した状態になるといっています。
この知識をいただいて、心の中(胸の内)に生成するものを「雰囲気実体」ということにします。
すると上記の「イエスが弟子たちの内にいる」というのは、
弟子の意識の中にイエスが雰囲気実体として生成している、ということになります。
さてここで、はっきりさせておきたいことがあります。
それは「弟子の心の中に生成しているのは、主観的なイエスのイメージだけなのか」
あるいは「イエスの雰囲気実体という実在が実際に生成していて、
それをそのまま弟子たちは感知しているのか」ということです。
鹿嶋は後者だろうと考えます。
すると、心の中には雰囲気という「気」的存在が生成しているということになります。
そしてこの考えは、実は、聖書の存在観に適合するのです。
聖書ではこの「気」的存在をズバリ「霊」として把握していますから。
が、ともあれこういう意味で「雰囲気実体としてイエスが弟子たちの心の内に生成している」というのが
「イエスが弟子たちの内にいる」という聖句の意味になります。
<イエスの内にも弟子の雰囲気実体が生成している>
これを「諸君(弟子たち)が私(イエス)の内にいる」という聖句にも当てはめましょう。
そうすると「イエスの心の内には弟子たちの雰囲気実体が生成している」ということになります。
さらに「私(イエス)が父(創造主)の内にいる」は、同様に
「父なる創造主の心の内にイエスの雰囲気実体が生成している」という意味になります。
<まとめていうと>
~~で、以上をまとめていいますとこうなるでしょう。
「父なる創造主の心の中にイエスの雰囲気実体があって、
そのイエスの心の中に弟子たち一人一人の雰囲気実体が存在し、
そしてその弟子たちの心の中にイエスの雰囲気実体が存在する」となる。
そしてそのことが「その日」つまりイエスが復活して弟子たちがイエスが生きていると確信し、
自分たちも生きるんだと立ち上がるその日に、
上記のことが「わかるよ」とイエスは予告しているのですね。
~~これをもう少しわかりやすくするために、弟子の心理を追体験するようにして書き直してみますと・・・
弟子たちは復活したイエスに会い、再度インストラクションを受け、天に昇っていくイエスを見ます。
→ それらの経験によって「イエスは地上にはいなくなったけれども間違いなく生きている」と確信します。
→ すると彼らの心の内には、イエスの雰囲気実体が手応えもって感知できるように生成しているのです。
その体験を通して、弟子たちは
「このようにイエスの心にも自分たちの雰囲気実体が存在するんだ」と確信します。
→ さらにその感覚を通して、
「このように創造主の心の内にも御子イエスの雰囲気実体がしっかりと存在するんだ」と体感します。
現時点の春平太にはそういう解読になります。
そしてもし、この解読が妥当でしたら次のことがいえそうです。
すなわち、上記のような実体感覚を得たとき弟子たちは
「俺たちはもう何でもするぞ!、出来るぞ!」
と心底思うことになっただろう、と。
これはイエスがこのインストラクションをしている「最後の晩餐」の時点より
もう少し先の出来事になりますが。
でも、こういう見えない世界のことには、他にもいろんな解読が成り立つでしょうね。
そういう聖句に関して人間が~教団の統率者たちの検討の末といえども~
一つの解釈を正統と定めるのには、根本的に無理があるんでしょうね。
先回の写真「カルヴァン通り」は坂道になっている。
標識のある地点から少し登ると住居跡地に到着する。
看板が埋め込まれている塀の内側を入り口から覗くと、
3階建てくらいのアパートのような建物があった。
かつてそこにカルバンの住居があったという)
「最後の晩餐」におけるイエスの、弟子たちへの最後のインストラクション、さらに次に進みます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「その日が来た時、諸君は、私が父(創造主)の内にいること、
また諸君(自身が)私の内にいること、
そして、私が諸君の内にいることを知るでしょう」(14章20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うわぁ~難しい! イエスの教えはどんどん深くなっていきますね。
でもとにかく何とか追ってみましょう。
まず「その日」というのは、前回に述べた日、すなわち
「諸君(弟子たち)が私(イエス)が生きていることを知って、
自分たちも生きようと立ち上がっていく日」です。
問題は、「誰かが誰かの“内に”いる」ということの意味ですね。
<「内にいる」は精神的なこと>
ここで「内に」と訳された言葉の原語のギリシャ語はεν(大文字ではΕΝ)で「エン」と発音します
(個々の語の発音はε、Εが「イプシロン」、ν、Νが「ニュー」)。
対応するローマ字に転換すると「en」となるのですが、
意味は英語のinに相当します。そこで英訳聖書では通常、inとなっています。
英語のinという語は、「中に」、「内に」、「おいて」など、色んな意味を持っていますよね。
文章の中では単に「に」と訳されているケースもあります。
が、いずれにしても、結構漠然とした言葉です。
これを、難しいこの聖句で使うのですから、ますます漠然とした気配になります。
鹿嶋はこれをとりあえず「うちに」とか、より具体的には「中に」と定めて考えてみようと思います。
まずこの聖句で、「内に」とか「中に」とかいうのが、物理的な意味でないことは明らかでしょう。
物理的なものが他者の内に存在したり、同時にまた他者が自分の中に存在する、などというのは不可能だからです。
ならば話は精神的・霊的なことでしょうね。
<イエスが雰囲気実体として心に生成>
そこでまず考えやすいところで、「霊的な意味で、イエスが弟子たちの内にいる」とはどういうことかについて~。
これを考えるに2月17日の記事、
Vol.212『言葉、イメージ断片、意識実体』(14~17章解読の基底知識・1)
~~の知識を援用しましょう。
ここで鹿嶋は、人の心の中(脳神経系)には言葉という信号によってイメージ断片が作られ、
それを契機として胸の内に実体感覚が生成することを示しました。
ベルグソンという哲学者は、この感覚の生成が実在を認識した状態であると考えています。
そしてその認識は雰囲気として認識した状態になるといっています。
この知識をいただいて、心の中(胸の内)に生成するものを「雰囲気実体」ということにします。
すると上記の「イエスが弟子たちの内にいる」というのは、
弟子の意識の中にイエスが雰囲気実体として生成している、ということになります。
さてここで、はっきりさせておきたいことがあります。
それは「弟子の心の中に生成しているのは、主観的なイエスのイメージだけなのか」
あるいは「イエスの雰囲気実体という実在が実際に生成していて、
それをそのまま弟子たちは感知しているのか」ということです。
鹿嶋は後者だろうと考えます。
すると、心の中には雰囲気という「気」的存在が生成しているということになります。
そしてこの考えは、実は、聖書の存在観に適合するのです。
聖書ではこの「気」的存在をズバリ「霊」として把握していますから。
が、ともあれこういう意味で「雰囲気実体としてイエスが弟子たちの心の内に生成している」というのが
「イエスが弟子たちの内にいる」という聖句の意味になります。
<イエスの内にも弟子の雰囲気実体が生成している>
これを「諸君(弟子たち)が私(イエス)の内にいる」という聖句にも当てはめましょう。
そうすると「イエスの心の内には弟子たちの雰囲気実体が生成している」ということになります。
さらに「私(イエス)が父(創造主)の内にいる」は、同様に
「父なる創造主の心の内にイエスの雰囲気実体が生成している」という意味になります。
<まとめていうと>
~~で、以上をまとめていいますとこうなるでしょう。
「父なる創造主の心の中にイエスの雰囲気実体があって、
そのイエスの心の中に弟子たち一人一人の雰囲気実体が存在し、
そしてその弟子たちの心の中にイエスの雰囲気実体が存在する」となる。
そしてそのことが「その日」つまりイエスが復活して弟子たちがイエスが生きていると確信し、
自分たちも生きるんだと立ち上がるその日に、
上記のことが「わかるよ」とイエスは予告しているのですね。
~~これをもう少しわかりやすくするために、弟子の心理を追体験するようにして書き直してみますと・・・
弟子たちは復活したイエスに会い、再度インストラクションを受け、天に昇っていくイエスを見ます。
→ それらの経験によって「イエスは地上にはいなくなったけれども間違いなく生きている」と確信します。
→ すると彼らの心の内には、イエスの雰囲気実体が手応えもって感知できるように生成しているのです。
その体験を通して、弟子たちは
「このようにイエスの心にも自分たちの雰囲気実体が存在するんだ」と確信します。
→ さらにその感覚を通して、
「このように創造主の心の内にも御子イエスの雰囲気実体がしっかりと存在するんだ」と体感します。
現時点の春平太にはそういう解読になります。
そしてもし、この解読が妥当でしたら次のことがいえそうです。
すなわち、上記のような実体感覚を得たとき弟子たちは
「俺たちはもう何でもするぞ!、出来るぞ!」
と心底思うことになっただろう、と。
これはイエスがこのインストラクションをしている「最後の晩餐」の時点より
もう少し先の出来事になりますが。
でも、こういう見えない世界のことには、他にもいろんな解読が成り立つでしょうね。
そういう聖句に関して人間が~教団の統率者たちの検討の末といえども~
一つの解釈を正統と定めるのには、根本的に無理があるんでしょうね。
私は起業前に、スイス本社の日本支社に勤めておりました。スイス本国には行った事がないのですが、Vol:227の写真を拝見し、スイス国とキリスト教の関係に興味が出てきました。
又、聖霊の働きについては、人間とは種が違うのですが、かつて何かの本で読みました「100匹目のサル現象」を思い出してしまいました。水で芋を洗ったり塩水で芋を洗ったり、という現象が人間誰も教えていないのに全国的にほぼ同時期に起こった事を、どこかの大学教授が解説しておられました。レベルこそ違えど、動物類にも起こる現象(この場合は聖霊の働きとは別と思いますが)ならば、万物の霊長たる人類にはもっと敏感に同時的な現象が起きるであろう、と鹿嶋先生のコメントを読んでいて感じた次第です。いつも興味深いコメントありがとうございます!
といったフランス人の避難所だったようです。
カトリックの支配下で啓蒙運動をした彼らは、
よくカトリックの軍隊に捕らえられそうになりました。
そうしたとき、彼らはスイスに逃げ込みました。
そしてほとぼりが冷めるとまたフランスに出て行って活動した。
それを繰り返すことが、スイスがあったことによってできました。
また、優れた時計職人にはカルヴァン派のプロテスタントが多く、
彼らは迫害を逃れてスイスに移住しました。
その結果、現在の時計王国スイスができたようです。
現在スイスは、時計だけでなく、製薬、医療科学器具などで先端を走っていますが、
この下地は、上記のような、啓蒙思想家や先端技術者の
駆け込み寺であったという歴史によって造られているようです。
スイスが歴史上、啓蒙思想家や先端技術者の"駆け込み寺"であった事には驚きました。キリスト教信仰が背景にあったのですね。
解説ありがとうございました。