ユダヤ教僧侶からの奇跡要請に対し、イエスは「このエルサレムの神殿を壊したら、三日で元に戻す」と応えました。これは「将来死んで三日目に復活する」ことを、言われていたのだ、とヨハネは説明しています。
つまり、イエスは、神殿という言葉で、自分の身体を意味しておられたのだ、とヨハネは解説するのです。そして、自分たち弟子は、この一件を、イエスが一旦十字架刑で死んで三日目に復活されたときに思い出した、という。ああ、あのときに神殿とは、自分の身体を意味して言われていたのだ、と悟ったというのです。
@ @ @
だけど、「この神殿を壊してごらん」といったやりとりがなされている時点では、弟子たちも真意がわかりません。ましてや、僧侶たちにわかるわけがありません。そんなことは誰も理解できようがないのです。
にもかかわらず、イエスはそういう言葉を発した。そこには、相手にわかるように話そうという姿勢はみじんもありません。わからなくても平気で言っているのです。このイエスの行き方は、何とも印象的であります。どうしてそんなことをするのでしょうね。
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一つの答えは、「創主から出た言葉には、現実・実在は従う」という鉄則が聖書の思想にはあるということでしょう。イエスは父なる創造主そのものではない。けれども、彼は自らの言葉を、「自分の思いで語っているのではなく、父なる創主から受けたままを語っている」との旨を言っています(12章49節)。
すると、この言葉には将来現実は従うことになるのです。それが聖書の鉄則です。そうであれば、イエスの主目的は、それを預言するところにある、ということになるでしょう。
つまり、その時点にそれを聞いている人間が、その真意を理解するかどうかということは、主たる目的ではないのです。それで、かまわず、言葉を発したと春平太は理解します。
もちろん、それによって、ユダヤ教の高僧たちの憎しみは、さらに高まってもいったでしょう。イエスには、それも織り込み済みでした。
つまり、イエスは、神殿という言葉で、自分の身体を意味しておられたのだ、とヨハネは解説するのです。そして、自分たち弟子は、この一件を、イエスが一旦十字架刑で死んで三日目に復活されたときに思い出した、という。ああ、あのときに神殿とは、自分の身体を意味して言われていたのだ、と悟ったというのです。
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だけど、「この神殿を壊してごらん」といったやりとりがなされている時点では、弟子たちも真意がわかりません。ましてや、僧侶たちにわかるわけがありません。そんなことは誰も理解できようがないのです。
にもかかわらず、イエスはそういう言葉を発した。そこには、相手にわかるように話そうという姿勢はみじんもありません。わからなくても平気で言っているのです。このイエスの行き方は、何とも印象的であります。どうしてそんなことをするのでしょうね。
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一つの答えは、「創主から出た言葉には、現実・実在は従う」という鉄則が聖書の思想にはあるということでしょう。イエスは父なる創造主そのものではない。けれども、彼は自らの言葉を、「自分の思いで語っているのではなく、父なる創主から受けたままを語っている」との旨を言っています(12章49節)。
すると、この言葉には将来現実は従うことになるのです。それが聖書の鉄則です。そうであれば、イエスの主目的は、それを預言するところにある、ということになるでしょう。
つまり、その時点にそれを聞いている人間が、その真意を理解するかどうかということは、主たる目的ではないのです。それで、かまわず、言葉を発したと春平太は理解します。
もちろん、それによって、ユダヤ教の高僧たちの憎しみは、さらに高まってもいったでしょう。イエスには、それも織り込み済みでした。
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