エルサレム神殿の広場で、イエスは旧約聖書には一度も出てこない「天国」を語り始めた。
「悔い改めよ。天国は近づいた」と口火を切った。
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ちなみにこの「悔い改める」は英語では「リペント(repent)」だが、いい邦訳語がない。
その本意は「正しい方向に改める」という、未来志向というか「前向き」ニュアンスだ。
だが日本人は「改める」というと「後悔する」という後ろ向きの心情を持ってしまう。
名詞のrepentanceも「後悔、悔悛」などと邦訳されていて、事態は同じだ。
ホントは「正しい方向に」という修飾語をつけたいところだが、それでは用語が長くなってしまう。
そこで、他にないから、と言うことで、日本では「悔い改める」がキリスト教の専門用語になっている。
外部者は、何度聞いてもよくわからないだろう。
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話を戻す。
ナザレの寒村からやってきた一青年が,突然「天国はこうだよ」と述べても、人びとは一笑に付すだろう。
「田舎の若造が何をほざくか・・・」
だがイエスは説教の前に、奇跡をやって見せた。
<驚愕は哲学のはじまり>
スコットランドの歴史家、カーライル(Thomas Carlyle, 1795-1881)に「驚愕は哲学の初まり」という名言がある。
この「驚愕」は五感に強いインパクト(衝撃)を受けることによってできる「驚きの感情」を意味している。
「哲学」は「見えない世界への思索活動」を意味している。
つまり、人は五感で驚くべきことを認識すると、見えない世界への思索を誘発される、というのだ。
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イエスが行った奇跡は、この「驚愕」心理形成の役割を果たした。
彼はある時は、脚萎えの男を歩かせ、
別の日には、耳の聞こえない人を、即座に聞こえるようにし、
またある日には、盲人の目を開いた。
(続きます)
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