今回は少し先に進みます。
前回鹿嶋は「歴史展開のすべての枠組は神語によって定まっている」という仮説でこれからやっていく、と申しました。
すると思いがけないことが鹿嶋の心に起きました。
平安が深まったのです。
<創造神への”恐れ”>
この仮説を抱く前には、創造神に暴君的な面もある、という恐れをも感じてきていたようだ、と気付きました。
なんてったって、創った側は創られて側よりも文句なく上位者ですからね。
被造物たる人間にとっては全能者ですからね。
旧約聖書の~
「陶器師が自由に創り、気に入らないものを割ってしまうのは、創る側としては当然ではないか」との旨の聖句もこの恐れを産んでいました。
預言者イザヤがそういう預言をしています。
引用しておきましょう。
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「おまえたたちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じにみなされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか、『彼が私を造ったのではない』と。
陶器が陶工に言いうるのか、『彼には分別がない』と」
(「イザヤ書」29:16)
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「災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに自分の造り主とあらそう者は。粘土が陶工に言うだろうか『何をしているのか、あなたの造ったものには取っ手がない』などと。
(「イザヤ書」、45:9)
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(このあたり詳しくは『誰もが聖書を読むために』鹿嶋春平太、新潮選書)をご参照ください)
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これらの聖句は、ストレートにとれば、創造神はつまるところは「思いのままに何でもしてくる方」となります。
それがゆえに、鹿嶋の心は平安になりきれないでいたのです。
<「神語」で定まっていたら>
だが、すべての初めに、創造神の意志が神語となって定まっているとなれば話は変わってきます。
創造神と言えども、自分の言葉を破ることは出来ないでしょう。
されば、我々は、その意志を聖句を手がかりに解読していけばいい。
不明なところは霊感を働かせて神語を想像する。
それでもって意味を埋め合わせる。
そうすれば創造神の意志、ひいては創造神への知識を深めていくことが出来るのではないか。
完全に知ることは出来なくても、その知識は深まっていく。
するとそのレベルに応じて、「しるし」(奇跡)を創造神は与えてくれるのではないか。
聖書に記された「信じる者に現れる奇跡」はそうした事例ではないか。
~こう思ったとき、鹿嶋の胸には平安がどっと増大しました。
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するとこんな思いも浮かんできました。
「神語アリ」の思想は、そう突拍子もないアイデアでもないのでは・・と。
次回には、それについて考えようと思います
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