この殺戮事件は、紀元後4世紀初頭にローマ帝国政府が行った広域クリスチャン殺戮活動より
はるかに陰惨といえます。
帝国政府によるそれはキリスト信仰を持たない人間によるもので、期間も10年間でした。
ところが聖句主義者への殺戮行為は信徒による信徒の殺戮で、
かつ1200年の長きにわたって全欧州を舞台に延々と続いたのです。
なのにこうした事実は公式の歴史にはいっせつ記されていません。
歴史教科書にも専門書にも出てこなくて、聖句主義者の内部文書だけに記録されている。
一つには時の支配体制者が「書かない、書かせない」をつづけたからでしょう。
それでも最近になって、イエスの~
「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」
(『マタイによる福音書』10章26節)
~ということばの成就が始まったかと思わせるような事態も出ています。
作家の手によって小説という形式でそれがリアルに描写された。
箒木蓬生『聖灰の暗号』(新潮社)がそれです。
またこれはユダヤ教徒に対してですが、その異端追跡の執拗さを丹念に描いた一般書も出ました。
マルコス・アギニス著、八重樫克彦・八重樫由貴子訳『マラーノの武勲』(作品社)がそれです。
これらは従来の歴史認識をひっくり返すような書物です。
だがまだまだほとんど話題になりません。読んでも信じがたいからでしょう。
「人間にこんなことが出来るはずがない」という思いが働き、
加虐趣味の作り話のように感じられるからでしょう。
だが実はこうした残忍な心理はある状態おかれると人間には自然に発露するものです。
序章で我々は、社会というものは生存のシステムであって、
人間がそれを形成し維持する直接動機は食と安全の保全にあることを見てきました。
そして3章では、この動機とノウハウは知性からと言うより
むしろ動物的な本能から発していることを知りました。
ここでは次に、動物的本能には凶暴性というか獣性も含まれていることを確認しましょう。
たとえばアフリカの平原で豹やライオンがシマウマの群れを追いかけ、
逃げ遅れたものを残忍に食い殺す映像が放映されます。
このときシマウマへの哀れみの気持ちなどは豹には全くありません。
只どう猛に食い殺します。
人間の動物本能にも同種の心理が埋め込まれています。
かつて放映されたテレビドラマ「必殺仕置き人シリーズ」にそれが描かれていました。
善良な市井の民を悲劇におとしめる悪代官や悪徳商人が登場します。
他方で普段は市井の民の暮らしをしていながら、番組の終盤に仕置き人に一変して、
悪徳商人らを各々得意な方法で仕置きする(殺す)人物が登場します。
彼らは悪徳商人らを完璧に殺します。
この時仕置き人たちには商人らへの憐憫の情などは一片たりともありません。
野獣のごとくに無感情かつ無表情に殺す。
これが獣性が表面化した人間の姿です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます