【信徒の教会生活は楽になる】
教理統一教会では、信徒の教会生活はとても楽なものになりました。
そもそも、聖書の中の言葉(聖句)の解釈をあれこれ思案するという仕事が全くありません。
日曜礼拝に出ていればいい。
諸事はみなプロがお膳立てしてくれています。
信徒は日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくるだけです。
日常生活でも、教会は結婚式や葬式も厳粛に、かつ、手慣れた技でやってくれます。
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こういう教会は、大衆にとってとても参加しやすいものです。
教会側にとっても、この方式は、一度に多数の信徒をさばけるマスプロ方式でもありました。
信徒はますます増加し、献金総額も膨大になった。
教理統一教会は大教会になっていきました。
【後に「カトリック」の名を冠す】
この教会は後に自らをカトリック教会と称するようになっていきます。
カトリックはラテン語で「普遍的」という意味を持っています。
自分たちの方式の教会こそが、世界が従うべき普遍的な教会だと自称していくわけです。
人間集団がこうなっていくのは、世の常でもあります。
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始めに大衆信徒の世話を担当した指導者たちは、そんな意識はさらさらなかったでしょう。
彼らには、現実の必要への、当座の便法的対応を積み重ねているという自覚がありました。
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けれども、この教会は大規模化するにつれて、新しい指導者(職業僧侶となるべき人々)を、育成せねばならなくなりました。
そこで神学校を設立して、若い神学生を養成していきますが、そこでは、教会の統一教理から教え始めることになっていきます。
この教理が唯一正統なものと、教えるでしょう。
そういう理念の下で、諸教科もまた教えられることになります。
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そうなると、若き神学生はもうその理念世界しか知らない教職者に育ちます。
聖句自由吟味方式など全く体験なしの僧侶に。
こうして、神学校で教わる正統教理こそが、普遍的な聖書解釈だと信じて疑わない僧侶が再生産されていきます。
こういうのはもう、誰もが歴史の中でやらかす、避けられない動向なのですね。
人間の限界です。
その結果、彼らはまた、自由吟味活動者を「異端!」として攻撃する僧侶にもなっていきました。
【カトリック教会、ローマ帝国の唯一国教に】
このカトリック教会が、紆余曲折を経てローマ帝国の唯一国教になります。
その過程は省略しますが、ともあれ、国教となれば、僧侶は国家宗教の管理者、統率者にもなります。
軍隊などの国家機関を使うことが出来る権力者ともなっています。
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当時、聖句自由吟味者は、依然として膨大な数がいました。
なにせ、キリスト教会は、最初の100年間はこの方式だけでやってきたのですから。
彼らは、その活動の性格上、スモールグループの連携体として、草の根的に存続していました。
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国教となった教理統一教会は、自由吟味者に自分たちの教会への合流を呼びかけました。
自分たちの方式こそが「普遍的」だと信じていますから。
だが、自由吟味者は、服従しませんでした。
これら二つの教会は、その活動方式も、それによって出来る体質も、水と油そのものだったからです。
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訳書本文に入る前に、これについて少し具体的に述べておきましょう。
訳者も、早く著書本文に入りたくてうずうずしてはいるのですけれども。
( Vol.5 <訳者解説>4 ~教理統一教会、ローマ国教に~ 完)
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