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(訳者解説)
ミードは次に、信教自由、思想の自由をアメリカ植民地に建設するに巨大な貢献をした二人の人物について書きます。
その一人、ロジャー・ウイリアムズは敢然と理想を追い求める気迫に、天与の知性と体力が付加された人物です。
彼は神学者にして牧師、そして雄弁な説教師でもありました。
ロジャーは今のロードアイランド州の一部の地域に、信仰自由社会を創設します。
インディアンと仲良くなり、彼らから土地を購入しての設立でした。
その信教自由社会に逃げ込んできた一人にジョン・クラークというバプテスト牧師がいました。
本書には詳しく記されておりませんが、ロジャーとジョンは今のロードアイランド州の地をバプテスト派の植民地とすべく、英本国にわたります。
国王から法的な植民団設立勅許上を得ようしての1651年の渡英でした。
勅許は容易には出ず、ロジャーは米植民地に帰りますが、ジョンは残ってなんと12年間申請をし続けました。
そして1663年に勅許状を得ます。
彼はロジャーが開始した仕事を完成したのでした。
では本文に入ります。
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【 ロジャー・ウィリアムズ新大陸で嵐を起こす】
さて前章にその名を紹介したウィリアムズ、彼はまさに”嵐を呼ぶ男”でした。
幼い頃から彼の心身は環境に溶け込めませんでした。
そして彼は溶け込もうともしなかった。
ケンブリッジ大学をめざましい成績で卒業しました。
その彼に、複数の上質な英国国教会教区から聖職への就任依頼がきた。
彼はその一つに就職しました。
ロジャーはリベラルな教会人で分離主義者でした。
彼はそれを自慢にしていました。
それが彼の苦労のもとになるのですが、ものごとを自分の心に秘めておくことが出来ない人間だったのです。
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その彼がアメリカ大陸に移住しました。
1631年2月の寒々とした日にボストンに上陸した。
大嵐が吹き荒れる航海を経ての到着でした。
彼はその航海が気に入っていました。
強風のデッキを歩くと雨は顔を打ち、風は彼の髪を巻き上げました。
彼はボストン方向を凝視し、そこでなすべきことに思いをめぐらしていました。
ボストンは諸手を挙げて彼を歓迎しました。
「ロジャー・ウィリアムズは若き教職者で、霊感が豊かで、情熱があって、素晴らしき才能の持ち主」という名声が伝わっていたからです。
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だが同時に彼は独自の意志をもつタイプで、自らの考えを口に出す性格でもありました。
上陸するとすぐにボストンの僧職者と衝突しました。
彼は教会の現状に関する私説を披露しました。
同情心抜きの言説でした。
彼はボストンの教会に加わるのを拒否しました。
ボストンの教会は母国の英国国教会に近いレベルで腐敗している、と彼は見ていたからです。
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後にセイラムの教会が彼を招聘しました。
彼はそれは受諾しました。
だが彼が出勤しようとしたその日に、ボストンの州議会が妨害しました。
それをする権限がないにも拘わらず、妨害に出た。
「この青二才反逆者のセイラム滞在は許可されない」というのです。
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そこで彼はプリモスにいって二年間説教者をしました。
そしてその地で彼は、ナラガンセット族インディアンの酋長たちと親しくなりました。
1634年になると、セイラムの教会が再び彼を招聘しました。
今度は妨害は出ませんでした。
セイラムの人々は穏やかな心持ちで彼を待っていました。
ところが彼の説教が始まるとセイラムの人々は立ち上がり、彼に向かって目をむきました。
それは爆発的な説教でした。
ダイナマイトを込めた神学理論でした。
彼は教会と国家の問題について論じました。
なんとも無謀なことです。
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さらに「マサチューセッツ警察裁判所の権力が宗教的な問題を扱うこと」への疑問を披露しました。
ボストン議会は忙しく動き、ジョン・コットンが告発書を提出しました。
これに対してロジャーは「その通りだ、告発書に書いてあることは正しい」といいました。
だが同時に「ピューリタン(清教徒)たちは自分たちが生活している土地の使用特許状を国王でなく、インディアンたちからもらうべきだったのだ」と述べました。
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ロジャーは又、邪悪な人間が宣誓したり祈ったりすることに反対の意を表明しました。
それは創造神を拝して行う行為だからだ、というのでした。
さらに「旧き英国の教区議会から派遣された聖職者の説教を、人々が聞くのは違法だ」と主張しました。
「市の行政官の権力は、身体、財産、人の外面的な諸事に対してのみ及ぶべき」とも言いました。
ああ! 他に考えること、言うことはなかったのか!
彼は外面的にはピューリタン(清教徒)の衣服をまとっていましたが、内面は自由吟味者でした。
【ウィリアムズ、信仰自由村を創設】
セイラムの教会は彼を支持しましたが、州議会はロジャーを植民地から追放すべきと決議しました。
決議に従って行政官は、彼を船で英国に送り返す計画を立てました。
船は彼を運ぶべく、ボストン湾に停泊していました。
だが報告書にはこう記されています~。
「当局者が彼を連行しに邸宅につく三日前に彼はそこを出ていた。そしてロジャー・ウィリアムズが何処に行ったかを彼らは知り得なかった」~と。
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その三日の間、ロジャーは森林深くわけ入っていました。
そして旧友のナラガンセット族の酋長たちに会って土地を売ってもらいました。
それはモハサック川の河口の細長い土地でした。
ロードアイランド州の一部に当たります。
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彼はそこに町を設計し、プロビデンス(「神意」という意味)という名を付けました。
それは 森で何ヶ月か過ごした後に考え出したよき名でした。
まもなく彼の町は完成しました。
そこはピューリタンの町々から逃げ出してきた同志で充ち満ちました。
清教徒地域への反逆者、不平分子、そこから追放された者も数多くいました。
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彼らはウィリアムズと一緒になって「植民地誓約」を書き上げました。
それには「住人は過半数の意志に従うべし」とありましたが、それは「市民生活上の事柄」についてのみでした。
この街を建設した目的を彼はこう述べています~。
「この町が良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。水面下で苦しむ同胞をみて、私はこの町ををわが愛する友に贈ったのである・・・」~と。
それが彼の意図でした。
彼は、住民がプロビデンスの周囲で働くのを原則としました。
そうやって~
「このような生活は実現可能なだけでなく、最も実用的である」ことを、初めて世に実証したのです。
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同時にロジャーは、人民の権利と意志のみをベースにして運営される自由政府を創設しました。
それは王権神授説に打ちんだ初のボディーブローでした。
彼は、政府と教会を完全に分離させ、政治的宗教的自由の諸理念を実施に移しました。
それは、欧州の子供たちがこの理念を学校で教わる、はるか以前のことです。
この男は英国の政治激変によって米大陸マサチューセッツの岸に打ち上げられた、最も挑発的分子といっていいでしょう。
またこの人物は、プロビデンスとロードアイランドの創設者であるだけでなく、あまたいる社会建築家のなかで最大の独創思想家でした。
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彼が創始した運動は、初期の植民地時代を通して、雪だるまが転がるようにしてその重量と力を増していきました。
雪だるまは、合衆国憲法の最初の修正(信仰自由の原則を憲法に追加した修正・・・訳者注)でもって最終的に休息したのでした。
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ロジャー・ウィリアムズは、プロビデンスに来た時点では公式のバプテスト自由吟味者ではありませんでした。
だが、まもなくこの問題を処理しました。
彼はホフマン氏によって浸礼(全身を水に沈めて行う洗礼)を受けました。
ホフマンは彼を招聘したセイラムの教会員でした。
次いでウィリアムズはホフマン氏に浸礼をさずけました。
他にも10人以上の人を浸礼しました。
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彼らの群れは米大陸での初のバプテスト教会となりました。
というとそれが以後の米国バプティスト教会の母体になったと想像したくなりますが、実際にはそうまではなりませんでした。
プロビデンスのこの集会から新しい教会が枝分かれすることはなく、ウィリアムズ自身、生前にそこを去っています。
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だが、そのことが彼の栄誉を曇らすものではいささかもありません。
その栄誉とは、合衆国における信仰自由のための戦いのパイオニアとしての栄誉です。
彼が一貫して主張した信仰自由原理は、後の米国バプティスト五大原則を産んだからです。
そしてそれは最終的には、合衆国憲法における国家原理として実を結んだからです。
【 クラーク、ウィリアムの偉業を完全化】
ロードアイランドには貴重なバプテスト自由吟味者がもう一人います。
ロジャー・ウイリアムズの人物像があまりにドラマチックなので見逃しがちになりますが、ジョン・クラーク博士がその人です。
博士はロンドンの開業医でしだが、アン女王が争いを引きおこした時に、ボストンにやってきました。
アン女王は激情の疫病神とでもいうべき人で、ピューリタン説教者の説教を公に批判するという大胆なこともやってのけていました。
彼女はまた、自分の鋭い批判は、神からの直接の啓示を受けてのものだと、告白したりしていました。
こういう公言は、ロジャー・ウィリアムズがかつてやった旧教会への批判と同程度に、やっかいなものでした。
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王女は英国を出て米大陸ロードアイランドにやってきました。
クラーク博士はアクイドネック・アイランドにある住居を彼女に提供しました。
そこはかつてウィリアムズがインディアンから購入した土地の中にありました。
クラークはまた、礼拝を捧げる教会をお望みならばニューポートにある教会を世話しましょう、~とも申し出ました。
この教会が最初からバプテスト教会だったかどうかは、わかりません。
だが、1648年までには間違いなくそうなっていました。
当時メンバーは15人で、クラーク博士はそこの「聖書朗読長老」でした。
彼の朗読は素晴らしいと評判でした。
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その彼が大仕事をしました。
1651年、ロードアイランドは彼を英国に派遣しました。
この地への植民地設立認可状を、国王から得るためでした。
クラークは12年間独りで奮闘し続け、ついに1663年、チャールズ2世が国王になった時に勅許状を取得するに至りました。
そこには~
「如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」
~という宣言が記されていました。
それは「当人が市民社会の平安を乱さない限り」という条件付きではあったのですが。
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クラークはアメリカ植民地にもどり、友人たちの喝采に腰をかがめて応えました。
帰郷後、ロードアイランド州の代理知事を2年間勤めました。
その後引退してプライベートな生活を送りはじめましたが、1676年突然逝去しました。
旧友ロジャー・ウィリアムズがこの世を去る15年も前のことでした。
ジョン・クラークはウィリアムズが開始した偉業を完成させた人でありました。
(Vol.11 4章 新大陸での近代バプテスト 完)
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