【ジョン・スミス、自由吟味者に】
オランダのメノナイトは、この三人の分離主義者を大歓待し、自分たちの信仰を入念に説教しました。
その説き方たるや、あたかも鉄をメノナイト刃物に鋳造するかのようでした。
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スミスは英国ではゲインズボロー地区の英国国教会司祭でした。
ちなみにその地からさほど離れてないところがスクルービーですが、そこはブラッドフォードとブリュウスターの居住地だったところです。
二人はともに1620年にアメリカ大陸に移住したピルグリム・ファーザーズの指導者です(訳者注)。
スミスはその活動の仕方がよくないと、1606年に英国王ジェームズ一世に国を追われ、オランダに亡命して来ていたのでした。
1609年、彼はメノナイト思想に完全に感化されるに至り、完璧な自由吟味主義者になりました。
彼は自ら再洗礼し、ヘルウィもモートンもそれに続きました。
そしてその地に彼らは、初の「英国全救済派バプティスト教会」を組織しました。*1
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*1 (訳注)全救済派とは、イエスを信頼することによって救われる(死後最後の審判で天国入りを許される)機会が全人類に与えられているとの聖句解釈をする人々を言う。
これに対して、予定救済派とでもいうべき人々もいる。
こちらは宗教解釈者カルヴァンの「信じて救われるものは、生前に予め創造主に定められている」という聖句解釈に同調する人々である。
カルバンのこの説は、予定説という名で有名である。
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このように三人は歩みをともにしてきたのですが、スミスがみんなでメノナイト派に入ろうと言い出した時に、歩調は崩れました。
ヘルウィとモートンはそこまではついて行けませんでした。
彼らは依然として”英国人”だったのです。
二人はスミスを”破門”しました。
一人ぼっちになったスミスは、1612年に世を去りましたが、その年、後進者のために、信仰宣言書を書き遺しました。
そこには彼の確信が次のように記されています。
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~行政者は職務上の理由で宗教ないしは精神的な事柄に干渉してはならない。
また、人に特定の形態の宗教や教義を強制してはならない。
キリスト教信仰は各人の自由精神にゆだねるべきであり、行政は政治的事項だけに関与すべきである。・・・・
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かくのごとくに、スミスは自由吟味主義の軍旗を掲げたままで死の門までいきました、
彼は最後まで節操の堅い自由吟味者であり続けたのです。
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へルウィとモートンは英国に帰りました。
彼らは、必要とあらば自らの信仰の故に被る迫害は潔く受け止める~という覚悟をしていました。
また、創造神の御旨にかなうのであれば、死ぬまでに幾人かの同調者を作ろう、と思っていました。
だが、彼らが迫害を受けることは、ほとんどありませんでした。
母国の状況は変わっていたのです。
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ジェームズ国王の宗教政策は、路線としては従来のままでしたが、迫害行為は和らいでいました。
1612年以降に激烈な罰を受けたものはほんの少数しかいませんでした。
それまでをみると、1550年にジョアン・バウチャーが異端のかどで火刑に処せられています。
1611年にはエドワード・ライトマンが鉄棒に後ろ手に縛られて火刑に処されています。
そして彼は英国では最後の火刑死者でした。
この二つの年度(1550年と1611年)の間には、他の火刑は実施されていません。
その間にも、命をかけて自らの信仰の証を立たことによって、罰金を支払わされたり、国外追放されたり、むち打ちの刑にあったりした人は多数いました。
だが自由吟味者に対して火刑を命ずるような烈火の怒りが、国王の心にわき上がることは、1612年以降にはなくなっていました。
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それ故、英国人がメノナイト自由吟味派に転向するのは容易になっていました。
おそらくヘルウィとモートンが帰国する以前にすでに、メノナイトの人々が英国中を伝道して回っていたのではないでしょうか。
彼らの伝道の成果は派手に表立つことはありませんが、彼らが自由吟味活動のタネを蒔いたのは間違いないでしょう。
そしてそれがその後のアナバプテスト自由吟味主義の成長のための土壌になった・・・このことには疑いがありません。
【近代バプテスト、英国に生成】
1638年にいたるまでに、「第一予定救済バプテスト教会」が英国の地に設立されていました。
(予定救済説とは、生前に予定されていた者だけに信じて救われる機会が与えられている、という説。 この教会はそういう聖句解読に立っていた。 「第一」は最初の、という意味・・・訳者註)
1641年には、全救済バプテスト教会から枝分かれした人たちが、「正しい洗礼は浸礼のみ」という宣言をだしました。*2
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*2 (訳注)洗礼の方法には大きく分けて二種類ある。
一つは全身を水に沈める洗礼でありこれが浸礼である。
今ひとつは額に水滴を垂らす方式で、これは滴礼と呼ばれている。
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1644年に、バプテストたちは自らの信仰宣言書を発表しました。
これは今日まで、何百万におよぶ自由吟味者の行動指針になっています。
ここで彼らは自らを「アナバプテスト」と呼んでいますが、まもなく彼らはバプテストと略称されることになります。
以後、世界に広く普及していくバプテストという名称は、史上初めてここに出現したのです。
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英国史には、嵐の時代も静寂の時代もありました。
その間バプテストの二つの分派(全救済派と予定救済派)は、各々独自な道を進みました。
各々が英国人の生活と人格形成に役立ちました。
その貢献は華麗にして豪華でした。
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二つのバプテスト派は、各々一貫して独自の自由思想を維持しました。
そして英国人に、自由を愛する精神を、あらゆる局面でしっかりたたき込みました。
自由を愛する精神については、英国人はバプテスト自由吟味者に負うところ多大なのです。
彼らはその恩のすべてを返しきることは決して出来ないでしょう。
バプテスト自由吟味者が英国にもたらした自由の大きさは~、
アルフレッド(アルフレッド大王、849-899.:デーン人の侵略から国土を救った国王)や
ヘンリー(ヘンリー4世、1367-1463:英国ランカスター王朝の初代の王)や
アイアン・デューク(鉄の公爵:the first Duke of Wellingtonの異名)らのもたらした自由を
~遙か超えています。
それはクロムウェル についても言えます。
【クロムウェルを指南する】
バプテストは、実はクロムウェルをコーチングしているのです。
1644年のバプテスト信仰宣言はクロムウェル革命の序曲でした。
それはこう述べています~。
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・・・創造神を礼拝する方法の制定者はイエスキリストただお一人である・・・・
・・・だから、行政者の義務は人間に精神の自由を与えることであり、(それが良心的な人間に対しては最も親切なことだ・・・)・・・
・・・そして良心を持った全ての人々を、あらゆる悪、中傷、抑圧、いじめから守ることだ。・・・
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聖句自由吟味者は、自由を尊び、自由のためにいのちを捧げる精神を、先祖から受け継いできています。
その彼らが、クロムウェルの軍隊に、群れをなして加わったのは自然な成り行きです。
これはドイツでアナバプテストが農民戦争に加勢したのと同じなのです。
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1775年当時クロムウェル軍のアイルランド要塞には、次のようなバプテスト自由吟味者たちがいました。
すなわち~、
都市の知事が12人、軍の大佐が10人、大佐代理が3人、少佐が10人、中隊付将校が43人いました。
またクロムウェルの娘はフリートウッド大佐と結婚していましたが、かれもバプテスト自由吟味者でした。
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クロムウェルとともに国王に対して戦ったバプティストは千人単位でいました。
彼らは議会派清教徒として、チャールズ一世を断頭台に送るということまでしました。
これには、欧州大陸の国王たちは震え上がりましたが・・・。
かと思うと、クロムウェルが勝利を収め権力者の座についた時には、彼自身と長老派の人々の不寛容に対して反対に回りました。
バプテストだった詩人ミルトンは、勝者たちの不寛容に対し、次のようにして正義の怒りを爆発させています~。
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・・・長老という新しい名は、かつての僧侶という名を大げさに書き替えたものにすぎないではないか。
諸君は、異議を申し立てるとその人を非難する。
図々しくも国内戦争を命じる。
そして、キリストが自由に解き放ってくれたわれわれの良心を奪い取る。
諸君はどうして旧き階層制度でもって人を虐げようとするのか?・・・・
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英国バプテストは、クロムウェルが王座に就こうとすると反対に回り、王座を拒否すると拍手喝采しました。
彼らは人のためでなく、プリンシプル(原理)のために戦う人間だったのです。
英国への愛国者である以上に、創造神の王国(天国)への愛国者だったのです。
【英国への膨大な影響】
自由吟味者の思想と文化は、英国に多大な影響を与えました。
偉大なる人物、偉大なる行為が英国にシャワーの如くに振り注がれました。
英国バプテストの予定救済派と全救済派は、1891年に一つに合流するのですが、別れたままの状態であっても、両派から恩恵が降り注がれました。
国内で革命運動が起きると、バプテストから加勢する兵士が出ました。
この兵士は、平和のために働く戦士でした。
バプテストの中からバニヤンが出ました。
彼はブラッドフォードの牢獄のなかで『天路歴程』を書きました。
『失楽園』の著者ミルトンが出ました。
彼は盲目でした。
ダニエル・デュフォーが出ました。
彼は 『ロビンソン・クルーソー』 を著作しました。
名説教者も出ました。
アレクサンダー・マクラーレン、A.J.ゴードン、ロバート.ホール、スパージョンたちです。
スパージョンは “無比の人”と呼ばれました。
アンドリュー・フラーが出ました。
彼は1792年に故郷に英国バプテスト宣教協会を設立しました。
ウィリアム・カレーが出ました。
彼は近代宣教活動の創始者です。
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予定救済派と全救済派との各々から、貢献者を平等に出してみましょう。
まず、前者の予定救済派から。
その最大の功労者はカレーでしょう。
彼がインドを今日の姿にあらしめるに貢献したところは、クリーブやハスティングスの貢献を遙か超えています。
彼はまた、英国の今日あるにも多大に貢献しています。
それはジョンウエスレー(メソディスト派教会の創始者として有名・・・訳注)に勝るとも劣らないでしょう。
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全救済派からはどうか。
最大の功労者はロジャー・ウィリアムズです。
今日のアメリカ合衆国を作り上げるになした彼の貢献は巨大です。
その貢献は、これまでの米国大統領を貢献度順に並べ、上位から12人がなした貢献を合計した貢献量に匹敵するでしょう。
(Vol.10 3章 近代バプテストの誕生 完)
この章で著者ミードが示してくれている情報は圧巻です。
そして、これ以後も目から鱗の情報が続きます。