【流れが変わり始める】
自由吟味者の闘争は長期にわたりました。
それまでにない数のバプテストが、法廷に引き出されました。
そして多くが無罪宣告されました。
彼らの一貫した行動と不屈の精神が、徐々に人々の注目を集めはじめたのでした。
彼らの姿勢は、人々の同情を集め、協力を引き出していきました。
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ジェームズ・マディソン(後の米国第四代大統領・・・訳者注)が彼ら自由吟味者の味方になりました。
モンティセロの住人にジェファソンという名の男(トーマス・ジェファソン:後の米国第三代大統領・・・訳者注)がいました。
彼も裁判所に立ち寄り、自由吟味者を目にし、その言い分を聞きました。
そして「バプテストが正しい」と言いました。
郡の裁判官にワシントンという名の男がいました(ジョージ・ワシントン:独立戦争における大陸総司令官、初代大統領・・・訳者注)。
マウント・バーノンの住人でした。
彼も自由吟味者に感銘を受けました。
これらの地域でバプテストへの同情が生じていき、人々のその気持ちが、流れを変えました。
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1779年(米国独立宣言の三年後)、バージニア州議会が税法を変更しました。
「以後永遠に法定教会の僧侶の給与のために税金を取ることはない」~というのがその内容でした。
これは法定教会にとって強烈な一撃になりました。
教会はよろめき、また、倒れました。
法定教会が倒れるごとに、バプテスト自由吟味教会が新たに頭をもたげました。
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ついでジェファソンが「信仰自由を確立する法律」を起草しました。
マディソンがそれを積極的に支持しました。
1786年、それは法制化(合衆国で)されました。
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バージニア州は多くの大統領を輩出した、まさに「大統領の母なる大地」でした。
この州が先駆的に成立させたこの法律は、合衆国での教会と国家の完全分離を確定しました。
米国はこれによって、最も偉大かつ独特の貢献を西欧文明に対してなしたといっていいでしょう。
だがこれはバージニアがなしたことなのでしょうか?
あるいはバージニアのバプテスト自由吟味者がなしたものなのでしょうか?
読者の判断にゆだねます。
【バプテスト、 戦いの中で成長する】
バージニアでの勝利によって、バプティストたちの血管のなかに、さらに新しい血が流入しました。
次から次へと新事態が起きました。
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独立革命で米国聖公会は破壊的打撃を受けました。
メソディスト教会はほとんど壊滅状態になりました。
その一方で独立戦争はバプテスト教会を成長させました。
これは公正な結果です。
バプテストの方も独立革命が成功するのを助けてきたからです。
ある観察者は(多分バプテスト・ウォッチャーでしょうが)こういっています。
「バプテストたちは人間に対して忠誠を尽くしたのであって、英国王に対してではない。
王党派には一人としてバプテスト自由吟味者はいなかった」
かというと「少しはいただろうが見つけるのが難しかったのだ」という者もいます。
どちらが正しいにせよ、ワシントンはこう言っています。
「バプティストたちは、ほとんどどこででも全員一致で働いた、市民の自由のための不動の友だった。
そして我等が栄光の独立戦争のための、一貫した助っ人であり続けた」
バプテストが見せた独立戦争支援の働きによって、彼らの抱くキリスト信仰の神髄が一般人に広く知れわたりました。
自由吟味者たちは、マサチューセッツやバージニアでの闘争過程で、彼らを投獄し鞭打った人々を、みな許しました。
それだけではありません。
独立戦争中に、イギリス本国はヘッセン人の傭兵を使って戦いを挑んできました。
その際、バプテスト自由吟味者たちは、昨日の敵(旧教会の人々)と一緒になって戦いました。
そして共に傭兵の銃剣に刺されて死んでいきました。
旧教会の人々は、かつて彼らを投獄や鞭で苦しめた張本人でした。
なのにそうした行為が出来たのは、バプティストが抱く「自由の大儀」が深いものだったからです。
その深さが、かつて彼らから受けた傷や彼らへの恨みを忘れさせたのです。
自由のために身を捧げようとする思いの深さが、旧敵に対しても尊敬と寛容の感情だけを産み、それをふくらませたのでした。
戦いが終わった時、バプテストたちは以前とはすっかり違った別人になっていました。
戦いの前には彼らは、迫害されっぱなしの小集団という印象でした。
だが戦の後には、自分たちのプリンシプルをこの大陸の法律の中に具現べく、先頭を切って走る人に豹変していました。
それほどに豊かで影響力ある集団となっていたのです。
いまや彼らの数は多くなり、その行動は積極的になっていました。
加えて彼らは、一般の人々にとって魅力的なスローガンを持っていました。
またこの当時一般人は、より高みを目指して進もうという気風に満ちていました。
【憲法成立を主導する】
バプテスト自由吟味者は、ひとときの勝利の輝きのなかに安住することはありませんでした。
彼らはいまや賢明となっていて、この新国家がそのままで民主国家として安定することはないと洞察していました。
英国勢力は去り、英国国教会は崩壊状態にありましたが、それでも新国家は依然として不安定だったのです。
諸州は連携して合衆国連邦を形成しました。
それをみるとバプテストは、次の課題は憲法の制定だと判断しました。
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草案が数州で批准にかけられると、彼ら自由吟味者たちは、草案が「教会と国家の分離」をうたっていないことを知りました。
それには満足できなかったのですが、それでも憲法がないよりはましです。
バプテスト自由吟味者は、とにかく憲法案を支持しようと、賛成票を投じました。
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多くの州が、後で「宗教自由」の条項を追加する、という約束はしました。
だが実際に法案を批准するとなると困難が生じました。
諸州は互いに他の州の有利な点をうらやんだのです。
中央に連邦政権をおくことにも否定的でした。
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その結果、 とうとうマサチューセッツとバージニアを枢軸州にし、この二州に決定権を与えて論争の帰趨を決めようということになりました。
この2州で草案が通らなかったら、全ては水の泡ということです。
ところがマサチューセッツは、先に議会投票をした州に同意するといって、バージニア州に先をゆずってしまいました。
かくして全てがバージニアの決定にゆだねられることになりました。
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さてその州バージニアでは、オレンジ郡の州議会議員の一つの椅子を、マディソンとジョン・リーランドが争っていました。
対抗馬のリーランドはバプテスト派の長老でした。
そしてこの草案の批准が通るには、議会にマディソンがいることが必要でした。
ところが選挙前に、マディソンの劣勢が明らかになりました!
オレンジ郡では圧倒的にバプテストの数が多かったのです。
マディソンに勝ち目は全くないことは、リーランドにもわかっていました。
たが、彼は、マディソンのあの”黄金の声”と政治的影響力がなかったら、憲法案は通らないことも知っていました。
リーランドは勝利を手中にしながら選挙戦を降りました。
マディソンは無投票で当選しました。
歴史の本に書かれているのは、その後の残りかすのようなところです。
そこではマディソンは「アメリカ憲法の父」ということになっていますが、彼は本当に父なのでしょうか?
リーランド長老については我々はどう書くべきでしょうか?
【憲法修正で信仰自由を確立さす】
バプテスト自由吟味者は、憲法が成立するとすぐに、いたるところで憲法改正についての議論をし始めていました。
1788年、バージニアのバプティストは総会を開き、「新憲法は信仰の自由を守るために十分な条項をもっているか」について議論しました。
彼らは自分たちでこのテーマをたっぷり話し合い、マディソン氏とも十分話し合いました。
そしてこのことについて、ワシントン氏とじっくり話し合うべく代表団を首都に送りました。
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ワシントンはそのときには大統領になっていました。
彼はバプテストたちを、心を込めた、同情溢れる姿勢でもって迎えました。
大統領の要請で、上院はバプテストたちの言うことを優先的に考慮しました。
その結果、第一修正条項の最初の行にはこう書かれることになりました。
「上院は、宗教団体の設立に関して法律で規制したり、宗教活動の自由を禁ずる法律を作ったりしてはならない。・・・」
これで成った!
信教自由はついに永久に成りました。
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以後、今日の我々まで、そのための戦いをしなくてよくなったのです!
戦いはロジャー・ウィリアムズやジョン・クラークの後を継ぐ者たちによって戦われました。
彼らは我々のために戦ったのです。
現在、バプティスト自由吟味者総勢1700万にのぼります。
その子孫たちは今後、祖先の偉業が決して消えないことを知るでしょう。
(Vol.13 6章 信教自由憲法ついに成る 完)
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