本書は、Frank.S.Mead(1954), "The Baptest", Broadman Press, Nashville, Tenesseeの邦訳に訳者解説をつけたものです。
著者、フランク.S.ミード(1898~1982)は、アメリカに生まれたクリスチャン・ジャーナリストです。
この人は「クリスチャン・ヘラルド誌」の編集長を務めつつ、「クリスチャン・センチュリー」「クリスチャン・へラルド」「リーダーズ.ダイジェスト」等の各誌に、福音関係の論考を執筆する生涯を送っています。
1951年には、その豊富な情報知識を用いて『合衆国キリスト教派便覧』(第十版はHandobook of Denomination in the United States, Abington Press, Nashville)を出版しています。
この本は米国に数多くあるキリスト教派を入念かつ客観的に説明した名著で、現在も十版以上の増刷を重ねる、代表的な教派解説書となっています。
本訳書の原著書の方は、戦前の1934年に初版が上梓された旧い小冊子です。
こちらは、近代英国に発生しアメリカ国家の基礎構造を築いた、近代バプテストの活動史をコンパクトに描いています。
これもまた名著で、現在も復刻版が販売されているようです。
けれどもこの小さな本には、一般読者の理解を阻むものが含まれています。
聖句自由吟味活動は、迫害され続けた運動でした。
権力者は、活動者の群れを周期的に襲い、逮捕、処刑し、その文書を焼き捨てました。
現在残っている歴史資料は、焚書される中でかろうじて流出・残存した少量で、ミードはそれを用いて本書を書いています。
そういう資料に記されている事柄の意味を、後の時代の人間が理解するのは容易ではないのです。
なにせ、理解に必要な背景情報が、権力者によってあらかた覆い隠されてきているのですから。
資料だけでも何回なのに、それを踏まえて書かれる本はそれ以上に、一般読者には理解が困難です。
けれども、本を作る人間は基本的に、一般読者にもわかって欲しいという期待を否定しきれません。
ミードは、多くの場面を「ここは理解できるだろうか・・・」と身もだえながら書いていたのではないでしょうか。
それでもミードは冷静で客観的な叙述に努めてきています。
けれども、最終章でついに、抑制し続けてきた心情が爆発しました!
これで彼自身がバプテスト自由吟味主義者であることが露呈してしまった。
もどかしさに耐えきれなくなったからだろうと、訳者は思っています。
原著書がそういう本ですから、邦訳書もまた、日本の一般読者にはその神髄がわかりにくいでしょう。
さすがの良書も、そのままでは言っていることがわからない。
理解のためには、最低限、聖句自由吟味活動に関する知識が必要です。
訳者は、その知識を冒頭の解説でもって補充しました。
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訳文も、聖書を開いたこともない一般読者にも違和感の少ないものにしたい、という夢を抱きました。
そこで、一本の連続した巻物のようになっている原文を、あえて区切って章付けしました。
そういう邦訳書ですが、訳者はこの本に複数の期待を抱いています。
その期待は層をなしています。
第一の期待層は、キリスト教活動の正しい全体像を認識するのに役立ってくれることです。
第二に願うのは、アメリカという国と、それに主導されている現代世界を理解する手がかりになることです。
第三の層は、もう一つ奥義的な認識への期待です。
明治維新での開国後、我々は、西欧社会の一端を知りました。
それは従来経験したことのない快適な生活を実現するノウハウを含んでいました。
我々はまず、それは西欧人一般が造ったものと思ってきました。
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ところが第二次大戦での敗戦後、その多くは西欧の中でも、欧州ではなく米国で出来たものだと、漠然と察知するようになりました。
けれども、それを創ったのはアメリカ人一般ではなく、一部の特定の人々だった。
初代教会以来、聖句の自由吟味活動を継承してきている、バプテストとかメノナイトとか呼ばれる人々だった。
彼らのリーダーシップによって、言論自由社会も出来ている。
本書はそのことを知らせてくれています。
読者の認識がここにまで進むのが、期待の第三層です。
そしてもう一つ、最後の究極的な期待層があります。
自由な快適社会を構築する能力は、肌の色に左右されるものではないという認識に,読者を導くのがそれです。
この資質は、聖句自由吟味を続ける人間全ての内に、芽生え育っていくものなのです。
そういう、真の意味での、人間の知的・精神的原動力の源の認識に、本訳書が役立ってくれたら最大の喜びです。
2016年10月3日未明、愛知県内の仕事場にて
鹿嶋 春平太
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