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ヨハネ福音書15章7節を時間をかけて解読してきたね。
この解読は、他の難解聖句を解明するのにも役立ってくれるよ。
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聖書の中には、重要そうだが「ほとんど意味不明」という聖句がいくつかある。
それを解読するのに、とても助けになるのだ。
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<信じる者にはしるしが伴う?>
例えば次の聖句(イエスの言葉)を見てごらん。
「・・・」は(中略)を示すよ。
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・・・・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。・・・・・・
・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、・・・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
(マルコによる福音書、16章15-18節)
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これ、凄い約束だろ?
だけど、福音を宣べ伝える人に、現実にこういうこと起きてる?
教会には「信者さん」はたくさんいるよ。
でも、そんな力は現れてないよ。
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牧師さんだってそうだ。
「うちの教会の牧師さん、そんな力ないよ。祈ってはくれるけどね」
~という教会員が日本ではほとんどだ。
で、牧師さんは説教でも、このマルコ16:15はパスしてやっている。
それが習慣になって、この聖句はないものとして扱うようになっている。
つまり、無視している。
それでいて「みなさん、聖書は神様の言葉ですよ! 疑わないでみな信じなさい!」
~などとニッポンの牧師さんは説教してるもんね。
そんなことしてる教会に、人々が留まると思う?
留まるのは、「あまり考えない」人たちだけだ。
だから、日本の教会は、概してみな、小さいんだよ。
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<「最後の遺言」を追うところから始まった>
では、この聖句を解読してみよう。
まず、このところの一連の話は、イエスの「最後の遺言」とでもいうべき言葉の意味解明から始まったことを思い出そう。
遺言聖句はこれだったね~。
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「聖霊が諸君(イエスを信じる人々)に臨むとき、諸君は力を受けます。
そして・・・(中略)・・・地の果てまでの、私の証人となります」
(『使徒行伝』1章8節)
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この意味内容を解明する最大の手がかりとして、鹿嶋はヨハネ15:7に目を付け、その解読を試みたんだね。
この聖句ももう一度掲げておこう~。
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「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、欲しいものは何でも求めなさい。
それはかなえられます。
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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<同じ信号を繰り返し受信すると人の感覚は麻痺する>
上記マルコ16:15-18の意味内容(シニフィエ)も、このヨハネ15:7と同じだと考えられるんだ。
なのにイエスが別の表現をするには理由がある。
同じ言語信号を繰り返すと、その信号に人間の感覚は麻痺する。
つまり飽きる。
飽きて、その意味内容に思いを至らせる意欲が湧かなくなる。
だからイエスは色んな表現で、本質を語るのだ。
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<対応する一対を取り出す>
そこで、その同じ内容に対応していそうな聖句をマルコ16:15と、ヨハネ15:7の聖句から各々取り出してみる。
一対はこうなりそうだ~。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私の名によって悪霊を追い出し、・・・(中略)・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
(マルコによる福音書、16章18節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
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「欲しいものは何でも求めなさい。それはかなえられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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この二つはどちらも~
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・・・・・・・・・・・・・・
「私(イエス)の証人(超自然的なしるしで証拠する人)となります」
(『使徒行伝』1章8節)
・・・・・・・・・・・・・・
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~の具体的な様態をいっているペアーだ。
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<残りの一対も見る>
では他のペアーは?
残るは、もう一対だけで、それらは上記超自然事象を実現する方法をいっている。
それを示す信号は、マルコ伝では~
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「信じる者には次のしるしが伴います」
(マルコによる福音書、16章15節)
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~の「信じる」だ。
他方、ヨハネ伝ではこれだ~
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「諸君が私(の言葉)に留まり、私の言葉が諸君の内に留まれば、」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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この聖句の内容を、わたしは長々と解読したのだったね。
だから、解読内容はもっと長く、豊富なものとなったよね。
それらの豊富な内容を示す信号に対応する、マルコ伝での信号はたったの一言「信じる」だけだ。
これではマルコ伝聖句がわからんのは当然だよね。
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<「信じる」は砕きにくい言葉>
この「信じる」という言葉は短い一言であるだけではない。
一般的に言って、そもそもその内容がわかりにくい言葉なのだよ。
なぜなら「わかる」ためには、その語の意味を日常語に砕いてみねばならない。
だがこれは漢語から直接そのままきている語なので、日本で出来たことばのように、意味を砕いてみることが困難なのだ。
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我が国ではこの「信じる」という言葉は、通常「この幼稚園、小学校が子どもにいいと信じる」「この薬は効くと信じる」のような風に用いられている。
つまり、何かの客体を対象として、「いいと思う」程度の意味で用いられている。
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だが日本語の聖書で「信じる」と訳されている語の英語は 「believe in 」だ。
「in」は「中に」だ。
でも「中に信じる」では、意味をなさないだろ?
「信じる」ならbelieveだけでいいじゃないか?
なぜ、in がついているのだ~となる。
やはりこれを「信じる」と訳すことそれ自体に無理があるのだ。
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日本語聖書の邦訳者ヘボン先生は、ここでも苦労された。
そして blieve in には他に適切な語がなかったので、「信じる」を邦訳語として使われた。
やむを得なかったことではあったのだが、その結果、この「信じる」という語は聖書に出てくる毎に、よくわからん言葉になっているのだ。
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<イエスの波動ワールドに住まうのが「信じる」>
そのことがこのマルコ伝での「信じる」にもあらわれている。
もうこれはヨハネ15:7を援用して考えるしかない。
やってみよう。
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この「信じる」は、ヨハネ15:7の「「諸君が私(の言葉)に留まり(住まい)、私の言葉が諸君の内に留まる」に対応していたよね。
そしてそのヨハネ伝聖句の意味は~
「イエス(の言葉)という信号に伴う(意味内容である)波動ワールドの中に住まわり、かつ、そのワールドが自分の中にも内住すること」~だった。
これを「信じる」の「ヨハネ伝的」意味内容とする。
(以後、聖書の中の「信じる」は「その波動ワールドに住む」と解するのがいい)
そしてこれを援用すると、懸案の上記マルコ伝聖句はこうなる~。
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「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。・・・(中略)・・・
私(の言葉)の中に意識が住まい、かつ、その意識の中に私の言葉が住まわった者には、次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、・・・(中略)・・・・・病人に手を置けば病人は癒やされます」
(マルコによる福音書、16章15-18節)
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こうなると、マルコ伝、16:15-18の聖句はリアルな内容を伴って我々の前に浮上する。
信徒、牧師さんたちにも(そして鹿嶋にも)この意識状態が成立していたら、宣べ伝えた福音を証明する「しるし」は現れるはず、~となる。
当面現れてないのは、この状態が完成していないから、というだけのことだ~となる。
今回はここまでにしておこう。
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