鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

永続確信3・「感動!」と「ひきこもり」

2005年02月05日 | この教会の基本理念
 前回、 永続確信が薄いと、自価意識も溶けていく 、ということがわかりました。ではこれが濃くならない場合にはどうしたらいいか。

<でも小細工はある!>

 小細工はあります。通常人は、「自分は死んでおしまいであるという意識」(これを無常感ともいいます)に、自己の知性をまともに向き合わせないようにします。そうしながら、まあ、何とか当面の自価意識を守って生きているわけです。

 不安定な状態ですね。だけど小細工というのは、そういうものです。「死んでおしまい」という知性認識を打破できなかったら、そうするしかないのです。

 高度成長が達成された後、日本に「感動 」という言葉が叫ばれるようになって久しいですよね。あちこちでキャッチフレーズとして、これが周期的に出てくる。

 どうしてか。人は感動すると、自己存在の無常感を陶酔の中に放念することが出来るのです。そうして、「死んでおしまい」の意識から解放されて、つかの間の歓喜を得ようとするのです。

<小細工が効かない人が「ひきこもり」になる>

 でも、そういう小細工で世に処して行くことはできない人もいます。「ひきこもり 」と称されている人々がそれです。 そうなる原因は自価意識が希薄になったことにあります。

 どうしてか。詳しくは別の機会に考えたいのですが、人間、食べることへの安心感が増大すると、自分が「何のために生きているのか」「どうせ死んだらおしまいなのに」といった意識が頭をもたげてきます。

 この「死んでおしまい」という意識は、自分の存在に付与させていた価値意識を減退させます。だから、人間、経済的に豊かになると、続いてその次に「自価意識」希薄化症状が必ずやってくるのです。

 これに対処出来ないと、自価意識という風船は針で刺され放題になります。その結果、物事全てに意欲が抱けなくなります。

 すると人はなんと、小さなことでも胸に刺さって心が傷つきやすくなります。逆に、意欲が強いと大抵のことでは傷つかなくなりますが、その反対の状態になるわけです。

      @      @      @


 傷つかないためには、外界、他者(親、兄弟も含めて)と接触する機会をなくすしかありませんね。で、ごく自然に「ひきこもり」になります。

 日本における「ひきこもり」の数のこの膨大さは、世界でも特殊な現象だそうです。現在、日本には100万人以上いるといわれています。1990年代に入って、40万人と推定され、推定値が60万、80万、100万と上昇した。

 もう、120万人くらいいるのではないでしょうか。増大の一途。自殺者 も前述したように、年間3万2千人。これは国を滅ぼしますよ。

<正面から粉砕する正攻法>

 どうしてそうか。戦後我が国では、当然やってくる自価意識の希薄化症候群に対して、何も手を打たないで、経済の豊かさと安定だけを求めた。食の保障だけを追求した。それがもたらしたつけです。

 では、もう国は滅びに向かって進むしかないのか。そうではありません。強力にして決定的な要塞があります。それがイエスの言葉・イエスの教えなのです。

 これは、「感動活動」のような、代償的・補償的なものではありませんよ。「死んでおしまい」の意識そのものに正面から対決します。そして、粉砕してしまう のです。

 こういうと、キリスト教会に飛んでいく人も出るのではないでしょうか。でも、我が国ではおおかたは肩すかしに合います。永続確信の教えがあると思って教会に行きます。ところが、多くの場合出会えないのです。

 どうしてか。そこではほとんどの場合、「愛」「愛・・」とやっているからです。次回はそのことについて考えましょう。
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<ヨハネ伝解読:臨時版>「解読の一つを読む」という姿勢で

2005年02月04日 | ヨハネ伝解読
 ようこそ、『ヨハネ伝解読』に。
 歓迎致します。

 ご訪問下さった方に、希望することがあります。それは

 「いろんな解釈の中の、一解釈として楽しむ」

   という姿勢を維持してお読みください、ということです。

 もちろん、鹿嶋春平太自身は、“これが正解ではないか”、という思い入れを込めて書いています。

 しかし、聖書というのは、底知れない本でありまして、我々個々人の予想を超えて多様な解釈が出来てくるものです。

      @      @      @

 春平太は、いま、米国南部のバイブルベルトとかディープサウスかと呼ばれるところにいます。
 ここは、「一つの解読に最終的な権威をあたえない、聖書の言葉そのものに最終権威をおく」という原理が深く浸透している地域です。

 これを聖書主義(Biblicism)といいますが(特定の解読に最終的な権威をおくいきかたは、教理主義といいます)、そのいきかたが普及しています。

 聖書は多様に解釈できますので、聖書の言葉に最終的な権威をおけば、結局、「あらゆる解釈を責めない、罰しない、容認する」ことにならざるをえません。

 ここはそういう土壌です。その上に、実に様々な解釈の華が咲いています。その多様性の実体は、言葉では言い尽くせません。現場をみないと、納得が難しいです。

 実に様々な解釈が、それなりに筋をなして、理屈の体系をつくっております。「そういう角度では浅い解釈しか成り立たないだろう」と従来春平太が予想してきていた見方がいくつかあります。ところが、それが冊子になるほどの体系を構成しているのです。

      @      @       @

 聖書の最後に『黙示録』という書物が収められています。これは、ヨハネという使徒(このヨハネ伝の著者と同一人物)が、延々と受けた幻を記録したものです。「天使がこれを与えた」と、この書物の聖句には記されています。

 黙示録の解読は、その天使の与えた幻の示すところを解釈すること、と春平太は思っていました。解釈は色々出来ようが、それが文字通り「天使がヨハネに見せた幻」という点は、動かないもの、と思ってきました。

 ところが、ここディープサウスには、「これはヨハネがそういう比喩的な言い方でもって、自分が言いたいことを述べたもの」という立場での解読がありました。「当時キリスト教は禁教だったので、ヨハネはそういう方法をとったのだ」という。

 この神学講義を聴いたとき、春平太は目を見張りました。そういう神学者、牧師さんが立派に禄をえて暮らしています。そういう立場の教会もあります。

 後に春平太は、そういう解読が一冊になった本を手にしました。それに一定の読者がいることを知ったときには、文字通り天を仰いで仰天しました。

 ・・・そんなもんです。

      @      @      @

 こういう解釈は霊的でない、という人もいるでしょう。春平太もそう思います。そういう教会には霊的な力があまり現れない、という人もいるでしょう。実際そう観察されます。

 けれども、教会員たちには、聖書という書物への信頼も、イエスへの信頼もあります。自由なフレンドシップも愛の奉仕もあります。

 そして、特筆すべきは彼等の知性が驚くほど活性化していることです。おそらくこれが、アメリカ一般市民の高い知性のベースを形成しているでしょう。

「聖書の解釈法を権力でもって強制しない。完全に自由にしておく」

 この原理が、米国人の知的活力の源になっています。聖書を自由に解読し、見解を提示し合う、という方法は、人の知性を活性化する最大の手法ではないでしょうか。おそらくそれ以上の方法はないのでは、と春平太は観察しています。

 
      @      @      @

それはそれでやらせておく、言わせておく・・・。

 この「ヨハネ伝解読」も、基本的にはその姿勢でお読み下さることを希望します。その上で、ある部分が自分の思うところと一致していたら、それをご自分の確信にしていかれるのもいいでしょう。

 しかし、基本姿勢は、一解釈を知的・論理的に楽しむという、ものにしてください。気楽な姿勢、軽いタッチがいいです。

 最後に一言。
 一日に、少しずつでいいです。できれば、ご自分の聖書を開いて、聖句をみながら読み下さることをお勧めします。そうすると知性活性化の効果は、(ただ、このブログをよむだけに比べて)10倍になります。

 場合によっては、百倍になる可能性もあります。

 では、始めましょう・・・。

                    鹿嶋春平太

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Vol.57『チョーヨンギ牧師の貢献』

2005年02月04日 | ヨハネ伝解読


 日本の福音界での聖霊について、少し余談をしましょう。

 聖霊という言葉は、やっと今日では日本の福音関係者の目覚めるところとなりつつあります。それにつけては、チョー・ヨンギという韓国の牧師さんの働きが大きかったです。

 ソウルでの大教会を主管する牧師です。彼は1980年代初頭に、日本人を福音化するという使命感に燃えて、大がかりな日本宣教を開始しました。

 テレビの力も使わねば、と「幸福への招待」という伝道番組を全国的に放映した。他方で、毎月のように信徒を集めた特別伝道集会(これを聖会という)を各地で開催していった。

 日本の牧師さんを集めて、教職者セミナーも開き、教育した。自分の教会の支教会も日本に各地に造っていった。そういう、一大キャンペーンのような活動が、10年間なされました。

      @      @      @

 当時、日本のクリスチャン人口は70万人くらい、成人の1%にも満ちませんでした。チョー師はこれを10年間で10%にすると目標提示して進みました。

 成れば1000万人位になります。彼は、これを「1千万人救霊」と見事にキャッチフレーズ化して、日本信徒の前に掲げて活動しました。

 10年がたちました。日本のクリスチャン人口は、どうなったか? 依然として1%を超えていませんでした。ほとんど変化なし。チョー師は「もう日本のことは日本の牧師さんでやって下さい」といって、引き上げてしまいました。

      @      @      @

 けれども、副産物がありました。チョー牧師の働きによって、日本の牧者たちの「霊アレルギー」が顕著に薄れたのです。それ以前、彼らの大半は、霊という言葉を聞いただけで「要注意!」と緊張するという状態でした。

 日本宣教を開始するにつけ、チョー牧師は日本の牧師さんたちにもかなり気を遣ったようです。最初の仕事は彼らの理解を得ることでした。

 多数の彼らを大きなホテルに招待して(伊豆だったと聞いています。大変な費用だったことでしょう)自己紹介し、自分の教理と日本で目指すところを説教し、了解を求めました。

 多くの日本牧師は、半信半疑でやってきたようです。韓国で大教会を主管しているというが、大丈夫か、異端ではないか。その当たりをチェックするのを主目的で来た人が多かったそうです。

 大会議場で集会がもたれました。そこでチョー牧師が説教で霊という言葉を使う。すると来会者は「霊といったぞ!」と互いに警戒心を確認しあう。まあ、そんな水準に当時の日本の福音界はありました。

      @      @      @

 10年たったら、それが変わっていました。もう、霊といっても怖がらなくなった。聖霊という言葉を、身を縮めることなく聞くようになった。自ら積極的に口に出す人、それを求める人も増えてきました。このことに対する、チョーヨンギ牧師の貢献は、大きかったわけです。

 その結果、我が国も聖霊を認める状況になりました。そんなわけで、「霊とまことによって」という聖句は、まったく無視される、ということはなくなりました。同時に、霊とは聖霊のことなんだよ、と解説しても、何をいっているかわからない、という人も少なくなりました。
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永続確信4・「世の愛」と「天の愛」

2005年02月04日 | この教会の基本理念
 永続確信の教えがあると思って教会に行きます。ところが、日本ではそれに出会うことはめったにない。むしろ、そこではほとんどの場合、「愛」「愛・・」とやっている。

 ーーー前回、そう申しました。今回はそれを考えましょう。

      @      @      @

 「キリスト教は愛の宗教」という言葉を、耳にされた方もすくなくないでしょう。 たしかに、「愛」はキリスト教に必須な、そして大きな要素です。しかし、いきなりそれをもちだすと、いろいろ無理がでてくるのです。

 日本の教会では、伝統的に、99%あるいは、それ以上が「イエスの教えの中核は愛」としているようにみえます。ところがそれは、知的にも、霊的にも雑なとらえ方なのです。

      @      @      @



 聖書の論理では、愛には二種類のものが明確に含まれています。

 第一は、この地上の世の感覚から出る「世的な愛 」です。
これは、我々が持って生まれたもの、そのままで自然に出る感情であり情熱です。

 第二は、創造主の霊である聖霊から出る「聖なる愛」とでも言う愛です。
 聖霊から出る愛は天の王国における愛でもありますから「天的な(heavenly)愛 」といってもいいでしょう。

 第一の、「世的な愛」は、今述べたように我々が持って生まれた自然な愛情感覚を指します。我々は人を愛しますが、その愛の裏面には、愛する相手の主体を縛りたい、独占したい、自分の思うようにしたい、奪いたい、という感情が伴っているのが普通です。

 「愛は惜しみなく奪う」という言葉もありますが、そのことを指しています。この世の愛は「惜しみなく与えるだけではないよ」といっているわけです。実際我々は、人を愛し、独占できないと嫉妬もします。

<「天の創主王国」の愛>

 第二の「天的な愛」は、文字通り、天の王国(Kingdom of Heaven)に存在する愛です。これは、裏面の「相手に代償を求める」という感情のない愛です。ただ、一方的に与えるだけ。

 聖書では、これをグレース(grace)といっています。これをギリシャ語を使って「アガペの愛」ということもあります。がともあれ、日本では、これを邦訳するのに困ったのではないかと思われます。結局「恵み」という言葉を当てています。苦しいですね。

 ともあれ、何も代償を欲しないで愛することなんて出来るか? できません。この地上の人間には出来ません。だから「天的な愛」なのです。

 そして、聖書ではイエスがこれを天の王国から持ってきた、という思想なのです。それで彼は、人間の救いのために、一方的に十字架死していのちをあたえた、と解されています。

 ここも、そう単純ではないのですが、まあ、そうしておきましょう。ともあれ、ですから日本の教会で「愛、愛・・・」と言っている愛は、そういう グレースの愛 ・アガペの愛です。これを心に抱き、実践することを理想として言っているのです。

 イエスが示してくれたこの愛を、心に抱こう。行おう。イエスに似る努力を重ね、それを行おう!と。

 ところが、それがそう簡単ではないのです。次回にそれを考えましょう。
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永続確信5・「思い」は霊の産物

2005年02月03日 | この教会の基本理念
 前回、こういうところで終わりました。
 
ーーー教会で「愛、愛・・・」と言っている愛は、無償の愛である。これを心に抱き、実践することを理想として言っている。イエスに似る努力を重ね、それを行おう!とやっている。ところが、それがそう簡単ではないーーーというところで。

 今回はそれを考えましょう。

<意識の本体は霊:潜在意識、顕在意識>

まず、大切なのは、聖書では「人の意識は、基本的に霊の発する信号」という思想、であることです。聖書では霊は意識の本体なのです。意識は霊から出てくる。発信される。だから、霊の状態が、意識のあり方を基本的に決めるのです。

 潜在意識、顕在意識ということがよくいわれますね。

 顕在意識 は人の意識の中でその人の知性が「自覚することのできる意識」です。“ああ、俺は今、奴を憎んでいるな”、というような自覚ができる意識。

 潜在意識 は、知性では自覚できない意識です。意識のそこでは憎んでいても、「憎しみの意識がある」と自覚できない。つまり、潜在しています。

 霊の意識の大半は、この後者の潜在意識になっているのです。そして、そこから意識の大半は出てきます。だから、霊の状態が変わらないと、人の意識は表面的にしか変えられないのです。

<「世の霊」と「天の霊」>

 「意識は霊のあり方で決まる」というこのことが、前述した愛のあり方も決めることになっています。

 「独占したい、相手の主体を思うように支配したい」、という思いをも含める愛、つまりこの地上の人間に自然に生じる愛は、人の意識にある「世の霊」の産物と言うことになります。

 では、そういう欲望が裏にない愛、グレースの愛は、どうか。これは「天の王国」にある愛でしたね。すると、それはこの「世の霊」ではない、「天の霊」から生じることになります。

<聖霊が働くときのみに>

 この天の霊を「聖霊」といいます。それは万物の創造主(ゴッド)から「出た」創主の霊です。イエスがそういう愛を注げたのは、自らの内に聖霊があったからーーーこういう道理になります。

 そこから、人間にもこういう希望が出てきます。つまり、人の内にも創主の霊である聖霊が入れば、グレースの愛が生じる可能性が出る。 無償の愛 、「くさくない愛」といったらいいかな、そういう愛が出うる。 

 教会で「愛、愛」といって期待し求めている愛ですね。

 ところが、それはそう簡単にはでません。聖霊が人の内に入って働くというのには、一定のプロセスが必要なのです。次回はそれを考えましょう。
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永続確信6・「永続」があって「救い」がある

2005年02月02日 | この教会の基本理念
 前回、ここまで考えました。

 ーーー教会で理想としている愛は、グレースの愛である。だが、その愛が心から出るには、創主の霊である 聖霊 が人の内に入って働かねばならない。そして、聖霊が人の内に入るには、一定のプロセスがあるーーーと。
 
 今回は、そのプロセスを考えましょう。

<天の思いが内に留まること>

 結論から言いますと、それには、人の内に「天の思い(意識)」を持った言葉が一定量、留まらねばなりません。天の思い(意識)を持った言葉とは、イエスの言葉、というのが聖書の論理です。

 イエスは天の創主王国からその思いをもって、やってきた。人の姿をとってこの地上にきて、人の言葉でそれを語った、ということになっていますから。

 イエスの言葉は、聖書に記録されています。記録はされていますけれど、それは沢山あります。ですから、ここでも、それらの言葉の組み合わせ、文脈を見つけ出し、教えのエッセンス、中核を見出さねばなりません。

 こういう作業を神学といいます。幸いなことに、この神学が根気よくなされた結果、現代では、その中核は「救い」の教え、その約束だという点で、解読はほぼ一致しています。

 これは、「愛、愛」と叫びたてている人も否定しません。

<「救い」とは幸福な「永続」>

「 救い」とは、英語のサルベーション(salvetion)の訳です。それは「人(の霊)が幸福な状態で(創造主の王国で)永続するようにされること」を意味しています。そういう風にして、霊が救われる、というわけですね。

 イエスの言葉は、これを中核にして体系化されねばならない。そういう形で、心に留まることが必要です。

 すると、人の心の内には、天の意識、聖なる意識の部分ができはじめるのです。そしてこの領域が一定の大きさ、深さになると、あるとき、天の聖なる霊である「聖霊」がその人の内に入るーーーそういうことになっています。

 聖書では「聖(Holy)」というのは、「天の創主王国」に特有の属性であります。そして、聖霊は、文字通り、聖なる霊ですが、もう一つ、特性がある。それは、聖でないところには留まらない、ということです。

 だから、聖霊に入ってもらうには、内に、一定の聖なる部分を意図的に造らねばならないわけです。ここは、人間の側に重点のある仕事なんですね。

 低開発国に井戸を掘ってあげようという援助運動があります。そこでは井戸の水を、手動のポンプでくみ上げます。日本ではガッチャンポンプと呼ばれることもあります。手でガッチャン、ガッチャンと動かして汲むわけですからね。

 ポンプが完成すると、水をくみ上げてくれるには、当初、ポンプに一定の水を上から入れてやることが必要です。上から注ぎながら動かしてみる。これを「迎え水」といいます。

 イエスの言葉を一定量、心に留めるというのも、これに似ていますね。


<人の心理では、まず永続確信、それから幸福>

ともあれ、今見たように「救い」は、永続だけでなく、「幸福な」永続ということになっています。では、不幸な永続はあるか、というと、これが聖書ではあることになっております。

 イエスの教えでは、人の霊(意識体)はどのみち永続するのです。その上で、それが幸福になる道と、不幸になる道とが説かれている。

 じゃあ、その道が分岐するあたりの教えの方が、大事じゃないか、と思えそうですね。ところが、実際はそうじゃない。人がイエスの教えに対して信頼心(信仰心)を抱いていく心理プロセスはそうなってはいません。

   人はまず、「自分が永続する」という教えに確信を抱く  のです。そして、この確信を抱くことが、イエスの教えに信頼感を抱くのに最も困難なステップのです。

 どうしてか? 人間には、霊(霊界)というものがもしあったとしても、それは見えない。肉体(物質)だけが見えるからです。

 肉体は、誰の身体を見ても100年もすれば壊れて消滅しますよね。人は、幼いときから、見えるものを基盤にものを考えます。だから、人間は消滅するもの、という確信が心に出来ています。それがあったり前だとする。

 その結果、人間は「永続する」という方に確信を抱くのがとても難しい状態になっているのですね。本質的には人間はみなそうでありますが、日本は世界でも、飛び抜けて無常感の深い国です。伝統的にそうできあがっているので、いっそう難しいのです。

 永続の教えに確信が持てたら、次の、「幸、不幸分岐理論」は、割合スゥ~と心に入ってきます。だから、永続確信は「救い」の論理への信頼を抱くための実際上の基盤 なのです。

<しばらくは吐き出すが>      @      @      @

 また、この永続確信を基盤にした「救い」の教え・イエスの言葉は、当初、心に入ってもすぐに忘れます。心に留まりません。人の心に生来ある「世の霊(意識体)」が、新参者をキックアウトします。

 蹴っ飛ばして放り出してしまうわけですね。こうして、言葉を吐き出します。

 だが、それを根気よく繰り返しやっていると、ある時、徐々に心の内に留まり始める。蓄積が開始される。

 すると、ある時、そこに聖霊が入ります。それが聖書の道理です。そして、聖霊が入れば、そこから、グレースの愛、イエスの愛も発生 するわけです。

 このプロセスをたどらないと、いわゆる「無償の愛」の意識は心に生じないのです。ところが、人々はそれを省いていきなり理想の愛を求めがちなのです。聖書をよく解読しないで。

 そうするとどうなるか。ここらあたりを、次回に考えましょう。
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Vol. 56 『霊とまことによって創主を拝する(4章)』

2005年02月02日 | ヨハネ伝解読

 「サマリア女は自堕落女か?」の検討は、前回で終わりました。次に進みます。

 4章には、もうひとつ、とても意味深い聖句があります。

 「創主を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければならない」

      ーーーというイエスの言葉がそれです。それはサマリアの女の

 「まことの礼拝すべき場所とは、どこでしょうか。ユダヤ人はエルサレムだといいますし、サマリア人はこの山だといっていますが」

  ーーーという旨の質問にたいするイエスの究極的な答えであります。

      @      @      @

 この聖句では、「霊とまこと」とは何であるかがポイントです。まず霊ーーーこれは、聖霊です。一般的な霊ではない。

 英語ではそれは、頭文字が大文字で書かれています。Spiritです。spiritではない。英語で頭文字が大文字のスピリットは、聖霊のことです。これを「霊」と訳した邦訳聖書が誤訳をしているのです。

 日本では、こういう初歩的な誤訳がなされたままで最近まで来ています。そしてその背景には、日本の聖書理解の文字通りの日本的特徴があります。

 日本の聖書理解は明治維新以来、霊的なものを省いたものになっているのです。(その結果、日本キリスト教は「愛の道徳教」に変貌してしまっています)

 だから、聖霊というものの役割もーーー霊ですからーーーその存在も働きも無視してしまうことになる。ところが、聖書では聖霊というのは決定的な役割を果たす存在なんですね。

      @      @      @

 聖霊は、創造主の霊です。父なる創造主の思いを知っているのです。人間の察知できないような創主の思いもわかっている。

 人は、だから、聖霊の助けを受けなければならない。聖霊の意識波動の影響を受けなければ、創主の思いの深いところを共鳴受信することが出来ないことになるのですね。

 そして、礼拝とは、創主と交流しつつこれを拝することです。相手の思いもわからずに、独り善がりで拝したって、創主は「わたしとは関係ないよ」というだけでしょう。

      @      @      @

 だから礼拝が成功するためには、聖霊の助けを受けることが不可欠となります。だが、サマリアの女にイエスが語っている時点では、まだ、その聖霊は地上にきていないのです。聖霊は、イエスが十字架で死に、復活し、天に昇った後にあまねく送られてくることになっています。

 そのときには、創主の思いを受信できるのは、特別に霊感が開けた預言者だけでなくなる。一般人がおのおの直接キャッチできるようになる。イエスはそれを「そういうときがくる」という約束でもって示しているわけです。

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永続確信7・最終回「永続確信を固める教会」

2005年02月01日 | この教会の基本理念
 前回、次のようなことが明らかになりました。
 
 永続確信が起点となって、救いの論理への信頼感が生まれ、それを中核としたイエスの言葉が心に留まるようになる。その状態が続いて深化していくと、あるとき聖霊が心の内に入ります。すると、それがグレースの愛を心に生じさせてくれます。

 このプロセスを飛び越えて、いきなり、グレースの愛、無償の愛を求めるとどうなるか。今回はそれを考えます。


                      



<代わりに「世の愛」が出てくる>

 永続確信も深まっていないのに、いきなりイエスに似よう、無償の愛を実践しようとしても、できません。聖霊の働きがないと、そうならないのです。これは、決意や意志によって、出来る問題ではない。もっと構造的、科学的な問題です。

 にもかかわらず、強引にそれをやろうとしていきますと、どうなるか。グレース(天の愛)の  代わりに「世の愛」が 出てきます。

そして、始末の悪いことに、多くの場合当人は、そのことに気づかないのです。で、それがグレースの愛だと思っている。

 もちろん、どんな人にも霊感というのが多少はあります。だから、途中でかすかながら「何か変だな」という自覚をもつことはあるようです。でも、それを契機に、本来のプロセスを志すと言うことは通常ありません。

 そのままで、もっとがんばってしまう んですね。努力によって理想の愛は出来ると思っているから。教会全体が、そうなっているケースが、日本に非常に多いです。もう「愛、愛、愛・・・」の一本槍。牧師さんも含めて・・・。

 これは、うまくいかないのです。そうするとまた、その自分を責めたりもするんですね。反省教会。祈りのほとんどが、自己反省の弁と「神様、すみません、すみません」に終始する教会。これ日本にとても多いです。

 あるいは、他者を叱咤激励したりもする。「自己中心性は罪です!」と叫んだりしてね。これは、英語のself-centerednessを日本語にしたものですけどね。そういって信徒をしかってる先生もいる。もう大変・・・。

<道徳教の場では、一般人は来ない>

 このように愛(世の愛)を意志の力で実践しようとするのは、もう道徳運動ですよね。この道を進むと、 教会は「道徳教の場」に なっていきます。今、日本の教会の99%は、その色彩を持っているのではないでしょうか。

 そこへ、一般社会からの訪問者が教会に来たらどうなるでしょう。わざわざ教会をのぞきに来るというのは、それなりに、一般の世とは何か違うもの、「聖なるなにか」を期待してくるのでしょう。

 ところが、そこでは「愛!、愛!」と叫んでいる。でも、そこで実現しているのは、「世の愛」です。それを見たら、教会って自分たちの生活している世界とあんまり変わりないなあ、と思うほかありません。外部者はそういうことを、直感できるんですね。

 応対の物腰は柔らかいんですけどね。何とか、形から整えようと長いことしていますと、牧師さんはじめ人々の、物腰や顔つきは柔らかくなるのです。でも、中身は訪問者が生活している一般社会と変わらない。それでいて、形を整えようとするのは、精神的にとても窮屈な状態です。

 (なんか、奥の方で心がひきつってるなぁ~)

 「 自由がない・・・ 」ーーそういうことも感知できるんですね。そこへ持ってきて「自己中心性!」なんて、指摘されているの見たら、もうダメ。そんなところに通う気はなくなりますよね。

 わざわざ萎縮しに行く必要などないですから。日本のクリスチャン人口が、全体の1%にも満たない、というのは、自然なことなんですね。


<正統な教会が必要>

 どこがいけないか。いきなり理想の「愛」の実践に走るところがいけないのです。どうしたらいいか。まず、永続確信をしっかり固めるところから開始すればいいのです。

 『鹿嶋春平太チャーチ』が、イエスからの最大のプレゼントを永続確信とするのは、そういう理由です。そういうオーソドックスな教会が、日本人に必要だとこれまで痛感してきたからであります。

人間は永遠に存続します。

      あなたも、永続しますよ!



              (「イエス最大の贈り物は永続確信」完)

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