G.I.グルジェフを登場させた小説だというので、小森健太朗『グルジェフの残影』(文春文庫、2006年)を読んだ。グルジェフに加え、同時期の神秘思想家ウスペンスキーが親しみやすい人物として喋り、さらにはスターリンの影をも見え隠れさせている。まあ面白いのですらすら読んだが、最後には耐え難いほど苛々している自分がいる。
この「親しみやすさ」が曲者だ。しかも狂言回しは朴訥で素直な青年であり、独白は馬鹿正直だ。「3日でわかる何々」と、どこが違うのだろう。宣伝にあるような「スリリング」さはなく、「本格歴史ミステリ」などでは決してない。何だか、「蒙を啓く」という意味での、嫌な「啓蒙」臭が漂っているようだ。途中で、ドストエフスキーの『罪と罰』を引用している箇所があり、その文章はごく短いものだが、ほっとしてしまう。
最後に作家同士の対談がある。これがまた、作者の博識ぶりを持ち上げた内輪受けである。アホラシ!!
苛々しながら思い出したのは、デレク・ジャーマンがルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの姿を映画化した『ヴィトゲンシュタイン』(1993年)だ。理系にはヴィトゲンシュタイン好きが少なくなく(多分)、自分も『論理哲学論考』に惹かれてしまったのだが、その理由はおそらく本を開けばわかろうというものだ。
しかし、そういったヴィトゲンシュタインへのまなざしは、実はことばの有機的なつながりを軽く見ていることの裏返しであるように思える。それと近い意味で、デレク・ジャーマンの『ヴィトゲンシュタイン』がなぜダメ映画なのかと言えば、ヴィトゲンシュタインのテキストを映画に移植するという過ちを犯してしまっているからだ。
脚本を書いたテリー・イーグルトンは、何とも無邪気にこう言っている。ジャーマンに不満はなかったのだろうか?
「ヴィトゲンシュタインの哲学のスタイルである言葉による当てこすりやウィットや辛辣さを”現実”のシーンに持ち込んだのである。ジャーマンの脚本はまったく別の感情的な特質をもっている―奇抜で、気まぐれ、その意味でも”英国的”だ。もっとも、私の考えではその結果、感受性が失われたが、辛辣なユーモアが”お笑い”的ユーモアに置き換えられたために、視覚的およびドラマ的な面白さが大幅に増したと思う。」(『WITTGENSTEIN』、アップリンク、1994年)
●参照
○G.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』
○ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集