Sightsong

自縄自縛日記

野中広務+辛淑玉『差別と日本人』

2009-08-17 22:45:15 | 政治

異色の政治家・野中広務と、在日朝鮮人であることを意識して発言する辛淑玉との対談、『差別と日本人』(角川書店、2009年)。野中に対するインタビューであるため、一読には時間がかからない。辛はときに野中に鋭く迫るが、やはりこのような企画である以上、両者の人間味を引き出し、お互いに持ち上げて終わる。内輪受けは私ははっきり言って好きではない。

強く印象に残るのは、自民党という巨大な内部調整生物ぶり、そしてまさにその中で調整役を果たし続けたスライムのような野中の存在感だ。政治家として異色であっても、それは決してヴィジョンの輝きによるものではない。異色な調整役であったということである。

従って、そのぬらぬらとした集団においては、受苦を極限まで(あるいは平均的に)少なくすべきというヴィジョンに基づいた政策など採用されない。調整の要素にならない、少数者の声や弱者の声は汲み上げられることはない。その姿が垣間見えても、メディアも理念・哲学といったものと無縁と化しているため、少数者の怒りという矮小化された問題で片付けられる。

「一般に、日本の社会は、そのリーダーに政治的な思想性や時代に対する先見性を求めない。求められるのは、ムラの利益のために、けっして「恥を外にさらす」ことなく、かいがいしく人々の「世話」をしてまわることだ。そして、原理原則や公平さなどとは無関係に、とにかく「もめごとを処理する」こと。この延長線上に日本の政治がある。」

「野中氏が足を踏み入れることになった自民党は、学識を必要としない社会だった。
 いわんや世界観や、理想や、見識や、文化的視座や政策科学的合理性などまったく必要ない。」

調整の結果であるから、政治的成果は何だか矛盾だらけのものとなる。「国歌国旗法案」も、いわゆる「従軍慰安婦」に向けられた「アジア女性基金」も、沖縄軍用地の「特措法」についても、野中の説明はちぐはぐだ。調整の結果、そのようにしかなりえなかったのだ、といった説明でしかありえない。そのようななかでも、時折強靭な個人の考えが顔を覗かせるところが、ある意味では魅力でもあったのだろう。

野中は、特措法成立(1997年)のとき、最後に個人的な意見を述べている。かつて、園部町長として沖縄を訪れたときのことである。

「沖縄行きの目的は、沖縄戦で2504人もの京都の人たちが命を落とした宜野湾市に慰霊碑を建てることだった。空港から現地へ案内してくれたタクシーの運転手がいきなり車を停め、「あのサトウキビ畑のあぜ道で私の妹は殺された。アメリカ軍にではないです」と言った。野中氏はその時の体験を話した上で、次のように述べた。
「この法律が、沖縄を軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないように、古い、苦しい時代を生きてきた人間として、国会の審議が大政翼賛会のような形にならないように、若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」」

魚住昭『野中広務 差別と権力』(講談社文庫、2006年)によれば、これは正直な意見であると同時に、小沢一郎と手を組んで改正案を成立させた梶山静六に対する当てつけでもあった。梶山は怒りで血の気が引いていたという。

その一方で、野中は辺野古基地建設には拘泥し続けた。名護市の住民投票の際にも、基地賛成票を集めるべく、カネ(振興策)を提示し、地元建設業や防衛施設局(当時)の戸別訪問を現地入りまでしてプッシュしている。(このときは歴史的な住民投票により、基地にノーが示されている。)

理屈や理念では説明できないところだ。いや、ネゴシエーション、寝技が政治だと決めてかかる人にとっては不自然ではないのかもしれない。

北朝鮮との国交正常化交渉においては、1990年の金丸・田辺訪朝に関わっている。このとき既に、野中は金丸の「(訪朝の)相談役」「参謀」「(北朝鮮についての)師匠」であったという(高崎宗司『検証 日朝交渉』平凡社新書、2004年)。「日本と北朝鮮が国交を樹立するチャンス」として3度目のとき(同書)である。北朝鮮に先制攻撃ができるという、要は米国と組んで空爆だという考えすらを首相が発言しているいま、野中広務という政治家にはもっと朝鮮の平和問題に取り組んでほしかったと思う。

が、様々な政局のなかで、成り行きで「汚れ役を引き受けた」ことを得々と語るようでは、うまい調整役であったことを言い換えているにすぎない。本書でも、日朝交渉の話は、いつの間にか、あるべき外交姿勢の話にすりかわっている。

参照
魚住昭『野中広務 差別と権力』
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア