Sightsong

自縄自縛日記

6輌編成で彼岸と此岸とを行き来する銀河鉄道 畑山博『「銀河鉄道の夜」探検ブック』

2009-08-29 23:12:59 | 東北・中部

神田小川町の澤口書店(>> リンク)の店頭に置いてある安売りコーナーは回転が速く、ときどき覗くと発見がある。畑山博『「銀河鉄道の夜」探検ブック』(文藝春秋、1992年)もそのひとつだ。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(1924年ころ)に憑りつかれ、自宅の庭に銀河鉄道の始発駅まで造ってしまった作者が、車輌構成や大きさ、乗客数、駅間の距離、枕木の素材、動力源などのディテールを突き止めようとする本である。

追求は、賢治のテキストをたよりに、計算したり、願望で創作したり。作者の詩的な主観が全体を覆っているという点で、ひと昔に流行した『○○の秘密』とか『○○研究序説』といったものとは随分異なる。

「人はただぼんやりと知性だけで武装していたのでは、こういう世界は思いつくことができない。」

作者の推理によると、28席ある車輌は6輌編成。銀河は水の中、その水を集めて走る水力機関車。鋼鉄のレールの下にある枕木は雲の鋳物。乗客には生者も死者もいる。光速に近いため、カムパネルラが溺れてからジョバンニと銀河鉄道に乗り、ジョバンニが突然此岸に戻ってくると40分しか経っていない。

もちろんカムパネルラは彼岸へと向かう死者、ジョバンニは生者である。この作品の背景には、妹トシを亡くした宮沢賢治のサハリンへの旅があったことはよく知られている。妹のことを痛切に想い、彼岸と此岸とをつなぐ世界を創出したわけだ。この旅の途中、賢治が書いた『青森挽歌』は悲しいイメージに溢れている。通勤電車で読み、駅を降りて歩く私の中にも、泣いてしまいそうなイメージが残っていた。やはり賢治は天才だ。

「あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか」

それにしても、『銀河鉄道の夜』は素晴らしい作品である。また読み返したい。

●参照
ジョバンニは、「もう咽喉いっぱい泣き出しました」
吉本隆明のざっくり感


『ながいなが~い』、『いつもいっしょ』

2009-08-29 10:00:00 | 思想・文学

インターネット新聞JanJanに、絵本『ながいなが~い』(かつらこ、くもん出版、2009年)と、『いつもいっしょ』(かさいまり、くもん出版、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『ながいなが~い』『いつもいっしょ』の読み聞かせ

 2冊の絵本を、2歳の幼児に何度も読み聞かせた。絵本とは、「絵が描かれた本」にとどまるのではなく、読み聞かせのプロセスの中に置いてこそ光ってくる面がある。大人が言葉を発し、その人のオリジナルな声によって子どもに届き、子どもはその言葉を繰り返す。言葉がその時間と空間において共振し、お互いの身体も心も震える。そうしたものではないだろうか。それに、もともと言葉とは、書かれた記号情報などではなかったのだ。

 『ながいなが~い』は、母猫と子猫たちの話。和紙、水彩、クレヨンなどを使っているのか、とても温かみのある絵だ。子猫が大勢であるため、動きも表情もいろいろで、子どもはそれに惹かれているようだった。皿を割ってしまった子猫がいれば、悲しそうな顔で「皿、割っちゃった・・・」と毎回呟き、怒っている母猫、笑っている子猫、眠っている子猫の様子をひとつひとつ真似してみせる。身振りと感情とは、毎回同じようでいて、毎回異なる。追体験とは面白いものだなと思う。

 『いつもいっしょ』は、見開きの左側に短い言葉、右側に動物たちの様子を配したシンプルな絵本だ。だからといって、赤ちゃん向けというわけでもない。なぜなら、「いつもいっしょ」と私が発し、子どもが「いつもいっしょ」と応えるとき、その「いつもいっしょ」には様々な意味が、大袈裟に言えば万感の思いが込められているからだ。

 今回改めて感じたのは、子どもが日常生活において親しみを抱いているものが登場すると、それにまつわるイメージを膨らませていくのだな、ということ。熊が毛布を持って歩いていたり、くるまってごろごろしていたりするのを見て、子どもは、寝るときに無いと駄々をこねるタオルケットのことを思っている。兎が可愛がる縫いぐるみもしかり。豚が寝っころがる浮き輪を見れば、この夏、はじめて体験した海の記憶を引き寄せていることがわかる。つまり、その場のコミュニケーションにとどまらず、生活や記憶の再共有という機能がある、ということだ。

 絵本は楽しい。他の人と共有すればさらに嬉しい。