山本義隆『熱学思想の史的展開』全3巻(ちくま学芸文庫)の第2巻は、熱量保存則、<熱素>なる概念の支配、さらにカルノー、マイヤー、ジュールといった孤立の天才たちによる熱と仕事との互換性の証明にまで話を進めている。
熱力学の第1法則においては、熱が力学的な仕事を生み、かつその逆もまた成立する。化学を学んだ現在の人間にとって当然の考え方である。しかしこれは、19世紀の絶えざる思考と実験によって、そして突然変異的に登場する天才たちの跳躍によって踏み固められたパラダイムであった。このパラダイムが曲者であることが、本書を読むうちに実感できる。逆に言えば、現代のパラダイムのみを所与のものとして学習することがいかに薄いものか。例えば、19世紀の大きな成果のひとつであるカルノー・サイクルを、普段思考の中に置かなくなった理系人間が思い出そうとしても困難であることが挙げられる(私だけではない)。
科学の進歩史観はその薄っぺらさと重なる。なぜ現在正しいとされる考え方が正しく、過去なぜ誤っていたのかを追体験しなければ、私たちにとって科学など共有する財産とはなるまい。著者は次のように喝破している。
「・・・科学の事実は事実それ自体で意味を持ち、そのような事実の発見とそれについての客観的知識の蓄積とともに、科学は、個々のゆらぎはつきものとはいえ、全体とすれば必ず真理―唯一の真理―に漸近してゆくはずであるという、進歩史観に発するものであろう。のみならずそのようなアプローチは、歴史記述に教育的効用を求める立場によってさらに助長されてきた。
実際には、個々の事実はそれを超える理論的枠組に相対的にのみ意味を持ち、それゆえ、事実の発見には、なにがしかの理論的立場を必要とする。また後に新しいパラダイムが受容されたときには、同一の事実がそれまでとは異なる意味を帯びるようになるのだ。進歩史観の誤りの根拠は、この点を理解していないことにあろう。」
19世紀の熱学の深化には、蒸気機関などの産業技術の必要性が大きく貢献した。必要だから科学が進歩したというのではない。技術の試行錯誤とそこからの発想のアナロジイにより、基礎科学が刻み込まれていったということである。実際に、ワットは測定器具などを製作し大学などに納める業者であった。
面白い話がある。18世紀に木炭にかわりコークスを用いた銑鉄精錬(現在の高炉)の技法が発明されたが、その完成がワットによる蒸気機関の改良と同時期であった。この方法は大量の石炭供給と強力な送風装置を必要としたが、その2つの問題を解決したのがワット機関であった。こうして英国における鉄の生産は、蒸気機関に支えられた、という。
19世紀なかばになり、<熱素>という物質のような概念―これは非常に優れた概念であり固いパラダイムを形成していた―が切り崩され、熱と仕事とが等価であるということ、ひいてはエネルギーという概念にまで突き進んでいく様子の描写はスリリングそのものだ。それでも、その時代の英国において、「ジュール主義者」であることは「いかがわしい」ことでもあったという。カルノーですら、何十年もまったく相手にされることがなかった。勿論、因襲や偏見から来るものではない。ひとの思考とパラダイム転換がいかに難しいものかを示すものだ。
そして、現在であっても、当然ながら、ひと個体の脳には<試行錯誤の経験>が蓄積されているわけではない。だからこそ、高校や大学の科学教育(化学だけでなく、物理でも地学でも)において、科学史を真っ当に位置づけるべきだと思うのである。