ミラン・クンデラの小説を読むのは久しぶりだ。全体主義の歪みを描いた『冗談』(1967年)も、哀しさが濃厚な『存在の耐えられない軽さ』(1984年)も、印象的な作品だった。「プラハの春」後のソ連軍による侵攻以降、クンデラの作品が母国チェコですべて発禁となったのは、人間の得体の知れなさが読む者に浸透する力の所為か。この、長編6作目の『不滅』(1990年)も、フランスで書かれている。
600頁弱にも及ぶ大作ながら、ドラマが最後の大団円に向かって熱狂的に進むような小説世界ではない。時空間も語り手も聴き手もひらりひらりと交錯し、テキストは交錯する。まるで、顎から下しか見えない何者かによる操り人形による劇中劇が、空中に浮かんでいるようである。複層世界は相互に無関係であり、かつ世界のどこかで繋がっている。なかでも、ゲーテとヘミングウェイ(勿論、同時代人ではない)が、死後の世界に語り合うくだりなどは痺れるほど面白い。
異なる舞台に、それぞれ2種類の女性たちが登場する。彼女たちにとって、<愛>が意味するものはまったく異なる。非=互換的な、変貌など知らない、2人の人間の間の特権的な<愛=関係>。それに対し、天上の手によって魂に点される焔、光に導かれて見いだし続ける<愛=感情>。<愛=感情>を持つ女性の視線の先にあるのは、<歴史>であり、<不滅>なのだった。そして、人間の命は有限であるという矛盾。自らの行動の意味がわからず、それがわかるころには自分自身の墓掘人となっているという悪い冗談。
クンデラは感情でさえも小説の道具とはせず、おもむろに相対化してみせる。
「感情というものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルネシアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情ではなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいホモ・ヒストリクスと同一なのである。」
大団円ではないと言いながら、分裂していながら、小説世界はある女性の人生と重なってくる。クンデラの恐るべき余裕、傑作である。