Sightsong

自縄自縛日記

ミラン・クンデラ『不滅』

2009-10-21 22:27:51 | ヨーロッパ

ミラン・クンデラの小説を読むのは久しぶりだ。全体主義の歪みを描いた『冗談』(1967年)も、哀しさが濃厚な『存在の耐えられない軽さ』(1984年)も、印象的な作品だった。「プラハの春」後のソ連軍による侵攻以降、クンデラの作品が母国チェコですべて発禁となったのは、人間の得体の知れなさが読む者に浸透する力の所為か。この、長編6作目の『不滅』(1990年)も、フランスで書かれている。

600頁弱にも及ぶ大作ながら、ドラマが最後の大団円に向かって熱狂的に進むような小説世界ではない。時空間も語り手も聴き手もひらりひらりと交錯し、テキストは交錯する。まるで、顎から下しか見えない何者かによる操り人形による劇中劇が、空中に浮かんでいるようである。複層世界は相互に無関係であり、かつ世界のどこかで繋がっている。なかでも、ゲーテとヘミングウェイ(勿論、同時代人ではない)が、死後の世界に語り合うくだりなどは痺れるほど面白い。

異なる舞台に、それぞれ2種類の女性たちが登場する。彼女たちにとって、<愛>が意味するものはまったく異なる。非=互換的な、変貌など知らない、2人の人間の間の特権的な<愛=関係>。それに対し、天上の手によって魂に点される焔、光に導かれて見いだし続ける<愛=感情>。<愛=感情>を持つ女性の視線の先にあるのは、<歴史>であり、<不滅>なのだった。そして、人間の命は有限であるという矛盾。自らの行動の意味がわからず、それがわかるころには自分自身の墓掘人となっているという悪い冗談。

クンデラは感情でさえも小説の道具とはせず、おもむろに相対化してみせる。

「感情というものは、そもそも、われわれのなかに知らず知らずに、そしてしばしば意に逆らって湧きあがってくる。われわれがそれを感じようと欲すると(ドン・キホーテがドゥルネシアを愛そうと決めたように、われわれがそれを感じようと決めると)、感情はもはや感情ではなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。ふつう一般にヒステリーと呼ばれるものになってしまう。だからしてホモ・センチメンタリスは(いいかえれば、感情を価値に仕立てた人間は)、じっさいホモ・ヒストリクスと同一なのである。」

大団円ではないと言いながら、分裂していながら、小説世界はある女性の人生と重なってくる。クンデラの恐るべき余裕、傑作である。


ジュゴンと生きるアジアの国々に学ぶ(2006年)

2009-10-21 00:24:06 | 沖縄

今年の2月に行われたセミナー『ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ』で入手した冊子、『ジュゴンと生きるアジアの国々に学ぶ』(アジア太平洋ジュゴン保護ネットワーク・シンポジウム、2006年3月)に改めて目を通す。

このシンポジウムでは、フィリピン、ベトナム、タイにおけるジュゴン保護の動きを報告しているほか、沖縄のジュゴンの現状を伝えている。たった3年半前とはいえ、沖縄のジュゴンは極めて稀少な種であるから、状況はさらに悪化しているかもしれない。

東南アジアの国々には、沖縄よりはジュゴンの個体数が多い。しかし、生育環境の悪化にともない、それぞれ脅威にさらされていることが訴えられている。(そういえば、辺見庸『もの食う人びと』にも、フィリピンのジュゴン食の話が出てくる。)

特に、海草を食べにタイの浅瀬に現われたジュゴンの群れの写真が冊子の表紙にもなっていて、目を奪われてしまう。干潮になると海面から出るようなエリアである。まさに沖縄との関連で考えるべきだが、日本自然保護協会により、沖縄最大の海草藻場が辺野古(名護市)と泡瀬(沖縄市)にあることが示されている。本来的な意義はもとより、環境的側面からも、もっともやってはいけない場所に基地だの無駄な埋立だのを計画している(一部実施している)わけである。

日本自然保護協会が行った海藻藻場のモニタリング調査「ジャングサ・ウォッチ」によれば、辺野古の海岸から1000mくらいまで海草が分布している


日本自然保護協会

また、ジュゴンネットワーク沖縄によれば、想定される飛行ルートは、ジュゴンが目視で確認された海域とかなり重なっている。タイのカンジャナ・アドゥルヤヌコスル氏の発言では、ジュゴンはヘリコプターの音などにとても敏感だということである。


ジュゴンネットワーク沖縄

要は何が言いたいかといえば、沖縄県・仲井真知事がアセス(似非アセス)の準備書に対して沖合に移動してほしいと要望しただの、それに対して米国ゲーツ国防長官が容認しただの、以前からの茶番をまるで条件闘争であるかのようにそのまま報道する新聞は、子供の使いかということだ。『東京新聞』ですらこのテイタラクであり、全国紙に至っては何をかいわんやだ。なお、50m前後の移動であればアセスをやり直す必要がないとされているが、上の通り、ジュゴンの生育環境に与える脅威という意味では何の違いもない。

●参照
ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)