Sightsong

自縄自縛日記

尹健次『民族幻想の蹉跌』

2011-12-18 21:59:54 | 韓国・朝鮮

尹健次『民族幻想の蹉跌 日本人の自己像』(岩波書店、原著1994年)を読む。バンコクからムンバイに飛ぶ機内で紐解き始め、プネーのホテルで読み終えた。

本書で追求されているのは、戦前の「日本民族」というギトギトに血塗られた神話が如何に形成されたか、だけでなく、戦後の「日本人」という「一見無イデオロギーを装った言葉」が何を隠蔽しようとし、忘れ去ろうとしているのか、にも及ぶ。しらっと普遍であるかのように示しやすい言説、それは普遍ではなく記憶と歴史の隠蔽であるというわけだ。

これらの指摘は執拗にして、われわれの無意識をも衝いている。なかでも、戦前の「日本民族」観が多民族の混血を前提としたものであったのに対し、戦後、愚かな「単一民族論」へのアンチテーゼとして日韓のかつての交流史が持ち出されがちなことを考えるなら、この変遷は興味深い。また、「慰安婦問題」を「解決済み」だと一顧だにしない国家のあり方を考えるためにも、一読を勧めたい良書である。

○幕末における吉田松陰の「一君万民」という近代国家を希求した思想は、天皇制国家の出発点に位置した。これはその後の「日本民族」という自己提示にいたる出発点でもあった。
○明治国家の成立過程は、自由民権運動の敗退過程であり、同時に「臣民」「国民」という言葉により天皇を媒介項として人民と政府との対立を曖昧にする構造を造り出す過程でもあった。また1880年代後半は日本に「帝国」というイメージが入ってきた。
○「臣民」も「国民」も、明治国家の誕生以後に生み出された概念である。個人は、強大な中央集権的国家(天皇制)、その下の「家」という中間集団(家父長制)の二重の抑圧のもとに置かれることになった。
○日本の「国民」意識は、明治国家までの人民の「自己意識」とはかけ離れており(藩やクニに分立)、虚偽のアイデンティティとして形成されていった。
○近代日本の成立は、西欧崇拝、天皇制イデオロギー、アジア蔑視観という3本の柱によって彩られている。
○1900年代初頭から、天皇制強化は、実際には、地方団体や社会集団等の社会的媒体の存在によって、あたかも多元的価値や複数集団への忠誠の分割であるかのような外貌を呈しながら進行し、それは天皇制的忠誠の集中過度からくる危険を分散させる絶妙な効果を発揮した。(藤田省三は、1942年、部落会・町内会などの地域自治機構の管轄が内務省から大政翼賛会に移されることによって、「国民統合」が達成されたとしている。)
○国内で「国民」としての同質化を強いられることと併行して、被差別者がその末端に位置づけられ、また、植民地人民が劣位の「国民」として組み込まれていった。
○「日本民族」の統一原理たる「日本精神」「皇道主義」の思想的確立は一朝一夕に達成されたものではない。このフィクションは、初めから具体案があったわけではなく、時局の進展に沿って次第に発見、開拓、負荷されてきた。
○戦前は、戦後の平板化した「純血・単一民族論」ではなく、多くの民族が同化融合して形成された民族であったのだとする言説が中心であった。ここにおいて、日本民族として区別される要素は精神的なものだとされた。そして、朝鮮民族の独自性を否定する「日鮮同祖論」を生みだし、アジア諸民族を「無限抱擁的に融合する」という同化政策の根拠を生み出し、アジア侵略を合理化するものとなった。
○内向きの虚偽のアイデンティティは、他者を劣位とみなす意識だけではなく、憐憫をまじえた同情意識(欧米列強に対抗するために日本の指導を仰ぐべきだとする考え)をも生んだ。
○これらの自己にのみ都合のよいフィクションは、アジアという「他者」からの視線を許容せず、アジアの他民族のなかに自己の姿を読み得ないものであった。
○「日韓併合」(1910年)は、当初の「韓国合併」から「韓国併合」を経て生み出された言葉であり、平和・合法的色彩を装うための欺瞞であった。
○植民地支配において、「同化」という言葉は、異民族支配の実態を示すというよりは、むしろ「民族問題」の顕在化を回避するための言説であった。すなわち、本質的に侵略であった。朝鮮人への参政権付与を説いた北一輝の思想にしても、本人たちの不満と願望、民族自決の意志といった現実をまったく無視しており、ファシズムそのものであった。
○現在の「日本人」という表現は、「日本」「日本人」「日本文化」などの概念を無条件・無前提に肯定したものであり、天皇制、朝鮮、アジアといったものも曖昧模糊のままに放置される性質のものである。他者の視線を組み込まないことは、歴史意識の希薄さにつながり、他者との緊張関係を欠いた自己中心主義的なものへと傾斜しがちになる。むしろ、戦前の罪科を切り落とす意味で、一見無イデオロギー性を装った言葉が多用されてきたのではないか。
日韓基本条約(1965年)では、日本はかつての植民地支配を「合法的」であったとして、朝鮮支配の責任をほとんど認めず、5億ドルの「賠償」も「経済援助」「独立祝金」というニュアンスで支払われ、その引き換えに韓国政府が「対日請求権」を放棄した。このため、日本政府はその後、植民地支配や韓国・「在日」被害者の戦後補償要求を「すべて解決済み」という態度を取っていくことになった。このように日韓の国交正常化は、「過去の清算」を曖昧にし、民衆を無視したままの政権どうしの関係「正常化」という性格を強く帯びた。
○日本国憲法は「平和憲法」であると評価されがちであるが、それは加害責任不明の文章である。もとより天皇の免責と憲法9条は交換条件であった。「護憲」を唱えるかぎりにおいては、天皇制の「擁護」を含むことになる。
○日本国憲法を貫く基本精神(自由、平等、人権)が「普遍主義」であるなかで、その受益者は旧植民地出身者を含む「外国人」を排除した「日本国民」であるというニュアンスが濃厚である。

●参照
尹健次『思想体験の交錯』 
『情況』の、尹健次『思想体験の交錯』特集


ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別』

2011-12-18 09:17:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

風邪で動けず、といってあまり眠ることもできず、突然思い出して、ギャビン・ブライヤーズ『哲学への決別(farewell to philosophy)』(Point Music、1996年)を取り出して聴く。

このCDは3部構成から成る。第1部「チェロ・コンチェルト(哲学への決別)」は、チェロ奏者のジュリアン・ロイド・ウェッバーを前面に押し出したもので、ブライヤーズ曰く、「チェロのリリカルな特質に焦点を置いた曲」である。7曲あれど、テンポや曲調が特に変わることもなく、延々とチェロは抒情的なメロディを奏でる。何と言うべきか、ブライヤーズの曲はこちらの過敏な粘膜を血が出ないよう抑えながらずっと擦り続けるような感覚なのだ。気持ちいいような、やめてほしいような、痛いような、痒いような、そしてまたリピートする。

第2部はパーカッションのグループ、ネクサスによる抑制されたアンサンブル。ここでこちらの粘膜も神経も鎮静化させられたのち、第3部「By the Vaar」に突入する。フィーチャーされているのは何とチャーリー・ヘイデンのベースであり、それだからこそ当時CDを入手したのだった。

かつてブライヤーズ自身がベースを弾き、デレク・ベイリー、トニー・オクスレーとグループ「ジョセフ・ホルブルック」を組んでいた。その前から、ブライヤーズにとってヘイデン(オーネット・コールマンと共演)は特別な存在であったという。それだけに、ここでの3曲でのヘイデンはひたすらフィーチャーされ、透明になるまで調理された肉汁のグレーヴィを思わせるようなヘイデン独特のピチカートが大きな音で響く。これはたまらない。3曲だけでなく、CDすべてをこの世界で埋め尽くしてほしい。

●参照
フェリーニとブライヤーズの船
チャーリー・ヘイデンとアントニオ・フォルチオーネとのデュオ
Naimレーベルのチャーリー・ヘイデンとピアニストとのデュオ
リベレーション・ミュージック・オーケストラ(スペイン市民戦争)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン


黒木亮『排出権商人』

2011-12-18 08:16:34 | 環境・自然

先週、成田からバンコク、ムンバイと乗り継ぐ飛行機で、黒木亮『排出権商人』(角川文庫、原著2009年)を読む。新刊時にタイミングを逸し、文庫化されたら入手しようと思っていたのだ。

2年前にこの本を書店で手に取って開いてみると、自分が書いた排出権の本が参考文献として入っており、自分も何度も足を運んだ中国山西省の太原市で登場人物たちが同じホテルに泊まり、同じ寺を見物し、似たようなものを飲み食いしている場面が目に飛び込んできたりして、何だかヘンな気分になって棚に戻したことがある。確かに、「日本のシンクタンクが出した排出権ビジネスに関する本」をネタに解説する場面になると、何を言われるかと過剰反応してしまう。

もっとも、実際に読んでみると、排出権の創出に関わるさまざまな場面が紹介され、取材もしっかりとなされているようで、素直に面白い。もう少しターゲットを絞っていたなら、知的なスリリングさもあっただろう。中身はオビの煽りのような内容ではなく、誤解と偏見に基づいてはいない。登場人物は微妙にリアルで、例えば中国政府の人物として出てくる男性はすぐにモデルがわかるし(名字を変えただけで、描写されている風貌通り)、主人公の女性のモデルも勝手にこちらで想像してみたりする。

確かに、国際政治の歪みにより影響され、不透明なマーケットが出てくる分野ではあるが、それはどのビジネスでも同じ。そこから温暖化懐疑論に飛びついたりにわかナショナリストになったりするより、どんな中身であるかを見たほうがまともな判断ができるというものだろう。すなわち、本書のオビよりは本書の内容。

●本書に登場する山西省
浄土教のルーツ・玄中寺 Pentax M50mmF1.4(山西省)
山西省のツインタワーと崇善寺、柳の綿(山西省)
白酒と刀削麺