Sightsong

自縄自縛日記

ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』

2011-12-26 22:56:53 | 政治

ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』(みすず書房、原著1991年)を読む。

昭和天皇は1988年9月、病に倒れ、1989年1月7日に「崩御」した。私は当時高校生、受験勉強の真っただ中にあった。そして連日、「下血」や「自粛」といった耳慣れない用語が新聞、テレビで飛び交うのを奇妙な気持で眺めていた。紛れもなくひとつの時代の終焉をリアルタイムで体験することに慣れていなかった、のだろう。しかしそれは、後から振り返ってみても、やはり奇妙な時間ではあった。なぜならそこには、決定的な変化の到来を望んでいない意志が存在したからだ。異常事態ではありながら、同時に何事もなかったかのような多重性。

本書は、その前後の数年間において、3つの場でのフィールドワークをまとめたものである。沖縄では、日の丸を燃やした人・知花昌一さん。山口では、事故死した自衛隊員の夫を靖国-護国神社に合祀することを拒んだ人・中谷康子さん。長崎では、天皇の戦争責任を明言した長崎市長・本島等さん。3人とも、個人を真綿のように取り巻く社会に対して、毅然とした、魅力的で真当な個であり続けている。

ここでいう社会とは、国家権力の末端というような組織的なものではなく、また、昔から生き続けてきた伝統的な地域社会というようなものとも異なる。顔の見える近しい関係、何らかの情報を介した顔が見え隠れする関係、顔の見えない抽象的な関係が無数に絡み合い、かつ断絶したような有りよう、そこに過去や小さきものに関する健忘症・切り捨てが加わり、もはや個としての動きを諦めなければ罪とさえ見なされてしまうような有りよう。これに抗するのは、やはり個の執念と苦悩と豊饒しかありえないことを、本書は示してくれているようだ。

「今日の日本のように、市民の圧倒的多数が自分は多数派に属していると信じ、その信念が日々、国民的アイデンティティの核として強化されている社会では、万人の権利のためにたたかう少数派にのしかかる負担は、耐えがたい重さとなるばかりだ。だからこそ、多数派が少数派に負うているのは、けっして寛容とか度量の大きさとかの問題ではない。(略) 少数派がたたかっているのは、彼ら自身のためであるのと同時に、多数派のためでもあるのだ。」

何が本書に力を与えているのか。それは日本社会では異端とされる個の姿ばかりではない。個と個のつながりである。本書の出版から20年が経ち、今年の増補版には著者が「あれから二十年余 増補版へのあとがき」を書き足している。そこでは、「どうしてもとりあげなければならない」ひとつのことばを紹介している。素晴らしいことばだと思う。「We found each other. /われわれは、われわれに出会えたのだ!

「いま起きている出会いは、時代の前後、経験の質や量の相違はどうあれ、いちばん大事なこと―この世の中を変えなければたまらない、と感じたから、いま、ここに来て、あなたのとなりに立っているのだ―という確認にはじまるのだ。」

●参照
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』(ノーマ・フィールド、知花昌一を沖縄思想史に位置付け)
金城実+鎌田慧+辛淑玉+石川文洋「差別の構造―沖縄という現場」(知花昌一さんが「時代の流れ」と「二見情話」を唄った)
金城実『沖縄を彫る』
ゆんたく高江、『ゆんたんざ沖縄』
読谷村 登り窯、チビチリガマ
『NHKスペシャル 沖縄 よみがえる戦場 ~読谷村民2500人が語る地上戦~』(2005年)