Sightsong

自縄自縛日記

スリランカの映像(10) デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』

2011-12-23 17:40:38 | 南アジア

泰緬鉄道は日本軍が連合軍捕虜たちを酷使して建設した鉄道であり、その名の通り、タイからビルマまで敷かれていた(現在はタイのみにその一部を残す)。特に難関だったのがクウェー川(クワイ川)での橋の建設であったといい、この話がもとになって、ピエール・ブールの小説が生まれ(『猿の惑星』の作者でもある)、その後、デイヴィッド・リーン『戦場にかける橋』(1957年)も生まれた。

しかし、ロケはタイではなく、スリランカ(当時、セイロン)で行われている。今日初めてこの映画を観て、改めて調べてみたところ、ロケ地はヌワラエリヤからコロンボへと少し向かったあたりのハットンであるらしい。聖山スリー・パーダの麓でもある。私もヌワラエリヤの「友人の教え子の家」に泊まり、大晦日の夜中に「初日の出」を見るべく電車で麓まで移動したから、ひょっとしたらそのあたりだったかもしれない。(友人も自分もオカネをほとんど置いてきてしまったことに途中で気がついて、何とか登山と下山までこなしたものの、そのあと一文無しでどうやってヌワラエリヤまで戻ったのか覚えていない。)

湯本貴和『熱帯雨林』(岩波新書、1999年)によると、いまではタイの国土は3割に過ぎないが、戦前までは8割近くが熱帯雨林に覆われていたという(>> リンク)。ただ、この映画が撮られた1950年代半ばの状況がどうだったのかはわからない。日本軍の捕虜収容所を脱出した米軍兵が保護された病院が、当時英国領であったセイロンの海岸にあるという設定になっており、ならば同じ国で撮影してしまえ、とでもいった決断があったのかもしれない。

映画は、英国軍将校にアレック・ギネス、米軍兵にウィリアム・ホールデン、日本軍将校に早川雪洲と豪華な俳優を揃えており、おまけにデイヴィッド・リーンときては、立派すぎて面白みがまったくない。今月足を運んだこの橋のたもとには、建設で命を落とした中国人捕虜の碑があった。映画の視線は、米、英、日、そしてタイ人(スリランカ人を起用したのかもしれない)にのみ向けられている。

それにしても、やはりあのテーマ曲は「猿、ゴリラ、チンパンジー」である。

●参照
泰緬鉄道
スリランカの映像(1) スリランカの自爆テロ
スリランカの映像(2) リゾートの島へ
スリランカの映像(3) テレビ番組いくつか
スリランカの映像(4) 木下恵介『スリランカの愛と別れ』
スリランカの映像(5) プラサンナ・ヴィターナゲー『満月の日の死』
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
スリランカの映像(7) 『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』、『シーギリヤのカッサパ』
スリランカの映像(8) レスター・ジェームス・ピーリス『ジャングルの村』
スリランカの映像(9) 『Scenes of Ceylon』 100年前のセイロン


シャンカール『Endhiran / The Robot』

2011-12-23 12:03:52 | 南アジア

シャンカール『Endhiran / The Robot』(2010年)のDVDを観る。主演は大スター・ラジニカーントとアイシュ。日本では『ラジニカーントのロボット』というタイトルが付けられるそうだ。

科学者(ラジニカーント)は、自分にそっくりな人間型ロボットの開発に成功する。彼の夢は、ロボットをインド軍で使ってもらうことだった。ロボットの感情のなさを指摘され、さまざまな情報をインプットして感情を植えつけるも、ロボットは科学者の恋人(アイシュ)を好きになってしまう。科学者は無骨で(恋人へのプレゼントが、スティーヴン・ホーキング『A Brief History of Time(ホーキング、宇宙を語る)』や『フリーコノミクス』であったというのが笑える)、それに比して万能で強く、忠実なロボット。しかし、科学者の恋人にご褒美とばかりに頬にキスされると舞い上がってしまい、暴走を始める。

手がつけられなくなり、一度は科学者に壊され棄てられたロボットであったが、彼の成功を妬む師匠に拾われ、悪辣な「Version 2.0」として再生する。ロボットは自己の複製再生産をはじめ、恋人を奪い、ロボット軍団を率いて帝国を築く。

タミル映画の伝統を裏切らず、歌あり踊りあり(ところで、何でマチュピチュを前にして、キリマンジャロ~モヘンジョダロ~なんて歌うのか)。下らなすぎて最高だ。

しかし圧巻は科学者・インド軍・警察とロボット軍団との対決場面である。説明するよりも動画の一部を観てほしいが、とにかく過剰だ。空に浮かぶ無数の紳士たちの悪夢「ゴルコンダ」を描いたルネ・マグリットも、これを観たら驚愕するに違いない。ここまでやるのかというCGと冗談、ハリウッド映画を笑いながら軽く凌駕する。何の感慨もないがとりあえずは驚いた。

>> 動画の一部

もう60歳を超えているラジニカーントは今でも大人気だそうで、昨年インドでそんな話をしながら歩いていると、同行のインド人がほらあそこにも、と車の窓に貼られたシールを指さした。あらためて確認してみると、この映画の宣伝用シールだった。


2010年10月、バンガロール近郊にて


金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』

2011-12-23 00:33:45 | 沖縄

金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』(『アリランのうた』制作委員会、1991年)を読む。序文は朴寿南による。

1944年、植民地朝鮮において、著者は日本軍に召集される。お前たちは皇軍の軍属となる、陛下の赤子として光栄なことと思え、仕事場は銃声の聞こえない後方だ、と訓示され、玄界灘を渡り、下関、小倉、長崎、鹿児島、奄美大島を経て那覇に否応も無く連れてこられる。そして軽便鉄道で嘉手納に移動し、名護、ふたたび那覇、糸満。勿論、銃声が聞こえない場所などではありえなかった。

短い手記ながら、凄惨な場面が続出する。逃亡者を連れ帰ってきた日本兵は、朝鮮人軍夫たちに仲間を叩けと竹棒を渡す。力を加減するともう一度やらされるため、力一杯打たざるを得ない。著者はこのように言う。「それでも自分たちはいわゆる”大東亜共栄圏”の主といっているのだ。

米軍が上陸してからは文字通り地獄と化した。日本兵からは差別され、その一方では日本兵と同じように最後まで戦い死ねと強制する。都合のいい支配者だけの論理であった。

名護では、「女子挺身隊」という名のもとに強制的に朝鮮から連れてこられた慰安婦11人を目にする。輿石正『未決・沖縄戦』(じんぶん企画、2008年)、朴寿南『アリランのうた オキナワからの証言』(1991年)、福地曠昭『オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦』(海風社、1992年)でも触れられているように、沖縄本島においても、名護ややんばるにまで朝鮮人の慰安婦が連行されてきていたのである。片や支配国の兵として、片や慰安婦として、沖縄で出遭うというおぞましさよ。

慰安婦としての個々の声や実態は、1965年に日韓の政府間で手を打ってからむしろ明るみに出てきているという。

ところで、朴寿南『ぬちがふう』は完成したのだろうか?

●参照
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
沖縄戦に関するドキュメンタリー3本 『兵士たちの戦争』、『未決・沖縄戦』、『証言 集団自決』
オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦