Sightsong

自縄自縛日記

フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』

2011-12-03 10:18:05 | ヨーロッパ

フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』(1997年)を観る。プリーモ・レーヴィ『休戦』を原作とする映画であり、奇妙に抒情的な邦題となってはいるが、原題はやはり『休戦』である。VHSの中古を入手した。

1987年に映画化が企画されたとき、レーヴィは「人生の暗黒の部分に一筋の光を当てられた」と喜んだというが、その1週間後、彼は自死を選んだ。これが直接の原因であったかどうかわからないものの、アウシュビッツでの無意味な死をまぬがれ、長い苦しい時間を経てイタリアに帰郷するという、おそらくは何にも代え難い個人史が、資本と既成システムに乗ることのインパクトは大きかったに違いない。

レーヴィを読んでしまった後で劇映画を観ると、無関係な自分にとっても、やはり複雑な気分は拭えない。ここで映画とテキストとは別だとする原則論を持ちだすとすれば、それはそらぞらしいものとなる。

映画の出来は悪くない。想像しがたいほどの苦痛と苦悩が薄い描写にとどまっているのは不満ではあるが、生きるということの猥雑さを示してくれている(但し、上品に)。問題は映画というメディアの既成の枠にあるのであって、飢餓も、痛さも、性欲も、女性が身体を売って生きていくということも、終戦後ミュンヘン駅でドイツ人が帰還者に向かって膝をつき頭を垂れることの意味も、すべてが短すぎて要素の紹介にとどまらざるを得なくなっている。

レーヴィ役のジョン・タトゥーロの呟きは、映画に力を与えている(これを無粋だと言う向きもあろうが)。神はなぜこのような試練を与えるのかと嘆く仲間に対し、レーヴィは「神は存在しない、収容所が存在する限りは」と応える。また、その仲間が、かつてナチの親衛隊員と関係を持たされていた女性を罵ったとき、レーヴィは彼を止めて「ナチが我々にもたらしたものは、飢餓でも死でもない。我々の魂を奪い、憎悪を植えつけたのだ」と言う。ナチの罪そのものではなく、明らかに、原罪のようなものこそを意識しているのである。

●参照
プリーモ・レーヴィ『休戦』
徐京植『ディアスポラ紀行』(レーヴィに言及)
徐京植のフクシマ(レーヴィに言及)
『縞模様のパジャマの少年』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
アラン・レネ『去年マリエンバートで』、『夜と霧』
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)