Sightsong

自縄自縛日記

ユルマズ・ギュネイ(4) 『壁』

2012-03-23 19:11:42 | 中東・アフリカ

ユルマズ・ギュネイのDVDボックスの1枚、『壁(Duvar)』(1983年)を観る。仮出獄後に亡命先のフランスで完成させた『路』(1982年)のあとに撮られたギュネイの遺作であり、やはりフランスでの製作だったのだろうか。

トルコ・アンカラの刑務所。内部は男性、女性、少年院と分けられている。投獄されている理由はさまざまで、殺人も政治犯もいる。この所長が残酷非道な男であり、権力をかさに虐待を加えるのを愉しんでいる。それは苛烈で、少年に対し、「おまえは仲間うちで少女と呼ばれているそうだな、違うなら証拠を見せろ」と一物を出させ、恥をかかせた挙句、割礼していないなと殴る。反抗しようものなら容赦はなく、看守たちに手加減せず棍棒で殴打させる。拷問するときは、叫ぶ口の近くにマイクを置き、見せしめのために刑務所中に放送する。そして、所内で結婚する男女がいるが、皆が祝福している中、突然それぞれを殺すようなことさえもする。

少年たちが暴動を起こす。しかし、当然すぐに抑えつけられてしまう。少年たちは別の刑務所に移されることになる。ここでなければどこだってマシだよと呟く少年たちだったが、移送先でも同様の抑圧がはじまる。絶望的な終わり方である。

ギュネイが映画人生の最後に、獄中生活の直後、刑務所の実態を晒す映画を作るということには驚かされてしまう。拷問が行われる部屋にトルコ国旗やケマル・アタチュルク(生誕100年の頃に撮られ、神格化は続いていたのだろう)の胸像がこれ見よがしに置いてあること、刑務所内の落書きに「Yasasin Kurdistan」(クルディスタン万歳)と書きつけてあることなど、おそらく当時の体制にとって許容などできようのない映画であったに違いない。ギュネイはクルド系であった。

なお、現在ではギュネイ復権なり、2011年には多くの作品群がDVDされたとの報道がある(このDVDボックスは2009年頃)。

特筆すべき場面は、獄中での出産である。何と、実際の出産場面を用いており、赤ん坊の頭が出てくるところが映しだされているのだ。サミュエル・フラー『最前線物語』における戦車内での出産シーンが、急に馬鹿げたものに思えてきた。暴力だけでない生の発露、これはギュネイの遺作にふさわしいものかもしれない。

ギュネイの作品リストは以下の通りである。(DVDボックスに収録されている作品は★印)

国境の法(Hudutların Kanunu) 1960年代 ★
 他、60年代にも作品
希望(Umut) 1970年 ★
エレジー(Agit) 1971年
歩兵オスマン(Piyade Osman) 1970年
七人の疲れた人びと(Yedi belalıar) 1970年
逃亡者たち(Kacaklar) 1971年
高利貸し(Vurguncular) 1971年
いましめ(Ibret) 1971年
明日は最後の日(Yarin son gundur) 1971年
絶望の人びと(Umutsuzlar) 1971年
苦難(Acı) 1971年
父(Baba) 1971年
友(Arkadas) 1974年
不安(Endise) 1974年
不幸な人々(Zavallılar) 1975年
群れ(Sürü) 1978年(獄中監督) ★
敵(Düsman) 1979年(獄中監督)
路(Yol) 1982年(獄中監督) ★
壁(Duvar) 1983年 ★

●参照
ユルマズ・ギュネイ(1) 『路』
ユルマズ・ギュネイ(2) 『希望』
ユルマズ・ギュネイ(3) 『群れ』
シヴァン・ペルウェルの映像とクルディッシュ・ダンス
クルドの歌手シヴァン・ペルウェル、ブリュッセル


イスマイル・カダレ『夢宮殿』

2012-03-23 12:33:54 | ヨーロッパ

イスマイル・カダレ『夢宮殿』(東京創元社、原著1981年)を読む。カダレはアルバニア出身の小説家である。母国との関係が悪化する前のソ連に留学、母国でも体制に容認された存在でありつつも体制批判的な作品のためフランスに亡命を余儀なくされ、現在では母国とフランスとを行き来する活動状況であるという。

19世紀、オスマン帝国。主人公マルク=アレムは、「夢宮殿」こと「タビル・サライ」という官庁に就職する。そこは、オスマン帝国の版図全域から、市民が視た夢を収集し、帝国を揺るがす種がないかどうかを分析する巨大組織であった。マルク=アレムはアルバニア名家の出身であり、武勲詩を語り継ぐほどの存在だった。しかし、それはオスマン皇帝にとって、アルバニアという辺境の家にあるまじきことなのだった。マルク=アレムは出世し、一方では帝国内の勢力争いが起き、そのうちにマルク=アレムは権威的な官吏になっていく自分を発見する。

独裁的共産主義国家のもとで全体主義の目に見えぬ脅威と恐怖を描いた作品としては、ソ連におけるストルガツキー兄弟『滅びの都』(1975年)や、チェコにおけるミラン・クンデラ『冗談』(1967年)を想起させられる。バルカン半島の小国であり、ギリシャとセルビアの隣にあるアルバニアという国のことを意識したことはほとんどなかったが、長いオスマン帝国の支配、第二次世界大戦中にはイタリアとドイツの相次ぐ支配、戦後は共産党(労働党)の一党独裁(1991年に終結)と、複雑な歴史を経た地なのだった。

巻末の沼野光義の小文では、バルカンの風土に根ざした独自の幻想性という点で、ルーマニアのミルチャ・エリアーデにも通じるものがあると指摘している。夜の闇と不透明な支配の闇のなかでうごめく小説世界は、確かに魅力的である。カダレの他の小説も読んでみたいところ。

●参照
ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』


小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』

2012-03-23 01:21:04 | 東北・中部

アテネ・フランセ文化センターで、小川紳介の没後20周年記念上映を行っている。先日の休みに、『牧野物語・峠』(1977年)と『ニッポン国古屋敷村』(1982年)を観ることができた。(ところで、久しぶりに足を運んだアテネ・フランセは、いまだに4階まで階段。かつて故・淀川長治氏の話を聴きにいったところ、氏は休み休みでのぼってきて、開始が遅れたことがあった。)

三里塚を撮ったあと、小川プロは山形に移り住む。『牧野物語・峠』(1977年)は、そこでのスケッチ的な記録である。

まず、大正生まれのお婆さんが登場し、蔵王のフォークロアを語る。何でも蔵王で頂上までの競争をしたところ、唯一ゴールに着いたのは「苔」であった、という話がある。近くには、秋田から「歩いてきた」山もある。このさわりだけで、既に日常をゆうに超えている。そして、蔵王は月山にくらべると穏やかな性格なのだという。

次に、ずっと百姓であった詩人・真壁仁が登場する。映画のタイトルは、彼の詩からとられている。「峠は決定をしいるところだ。」から始まるその詩は、何ともいえぬ含意を含みもつようだ(>> リンク)。詩人本人は、とつぜん敗戦を迎えた頃の、開けた空間と岐路とを意識したものだという。詩により沿っていく映像、しかし、彼はお婆さんとは逆に、蔵王を厳しい環境だと表現する。

そして、明治生まれのお爺さんが登場し、村々の水を巡る争いを解決した思い出話などを訥々と語る。この表情を見つめるカメラ、何とも人間的な関係なのだった。

『ニッポン国古屋敷村』(1982年)は3時間半の大作である。

この古屋敷村は過疎により寂れ、もはや8軒しかない。何年かに一度、「シロミナミ」と称するヤマセが襲ってきて、せっかく育てた稲を台無しにしてしまう。映画は、それが何故なのか、気温の日変化や、水田の場所や、土質などを執拗に追及する。ほとんど科学教育映画を凌駕するレベルである。それも当然、何年も住みついて、なし崩しにではなく、あくまで外部からの者たちとして、フィルムにその世界を焼き付けることのみに奉仕したことの凄まじさが、隠しようもなく顕れてくるのである。

道路の建設、近代化への期待と裏腹の過疎。雪の山中でひとり木を伐り、丹念に窯を作り、炭焼きをして暮らす人。そのような生活を回想し、熊をみた、逃げる綺麗な女性をみたと嬉しそうに話し続ける老人。養蚕にいそしむ家族たち。満洲に出征し、奇跡的に生きて帰ってきた人たち。戦時中遺族に授与された国債を、ほとんど手つかずに取っている老人。

言葉にしてはならないと断言さえできる、数々の過ぎ去る時間の重み。それらが、そのままの形で観客に提示されるという強度が、この映画にはあった。従って、当時のパンフレットにおいて上野昴志が言うように、この映画は、捏造としての歴史ではなく、歴史を不断に揺さぶるものとしての歴史だ、とする見方には共感するところ大なのだ。