辺見庸『瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ』(NHK出版新書、2012年)を読む。NHK「こころの時代」枠で放送された辺見庸の独白(2011/4/24)をもとにしたものであり、最近再放送されたそれと見比べると、確かに思索が進められているように感じられる。
東日本大震災<3・11>の後に著者が感じたのは、いかに言葉が薄っぺらく、全体主義的・予定調和的な危険な存在と化しているか、であった。拒否の視線は、たとえば、スローガン的に発せられた「がんばれ」や「復興」であり、日本人の美質や精神性を過度に強調する言葉であり、ACジャパンのCMにあった「ごめんね」や「思いやり」など過度に単純なフレーズであり、出来レースから外れた声はなかったことにする暗黙のポリシーであり、色のない情報と化したニュースであった。著者はそれらが、暗黙の「行動準則」または「精神の典範」となり、逆に「社会生活上の禁止事項の示唆」にもなったのではないか、と考える。
それは確かに、著者の言うように、敗戦前や昭和天皇「崩御」前と共通する下からのファシズムなのだろう。誰もが、勿論言うまでもなく本来批判的精神を有してしかるべきメディアもが、知的退行を隠すことができず、相互監視のもと、<個>としての発現も、思索を深めることも、できなくなっている。
しかし根本的な納得にまで至らない点もある。著者は、おそらく、<個>の精神から、存在から立ちあがってくる言葉こそが本来の言葉であり、そういった言葉が存在そのもの、精神そのものだと言いたいのだろう。<個>のレベルで深い詩や言葉を立ち上げ、それに感応し、思索を含めていくべきではある。それは全面的に共感できるものだが、わたしには、逆に、言葉への収束という陥穽も感じられてならない。
著者は、自衛隊や米軍といった<戦争機械>(ドゥルーズ=ガタリ)が、災害救援部隊としてのみメディアにクローズアップされ、歓迎容認されていることにも警鐘を鳴らしている。もっとも、ドゥルーズ=ガタリのいう<戦争機械>とは、著者が引用するような単に戦争を取り行う装置ということではなく、もっと広い概念と貌を持ち、情動により駆動されるものである(>> リンク)。その意味では、情動こそが危険な状況だということもできるのであろう。
●参照
○徐京植のフクシマ(NHK「こころの時代」)
○『これでいいのか福島原発事故報道』(ACジャパンのCM)
○高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』、脱原発テント(本書と同様に「天罰」論を批判)
○ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(<戦争機械>論)