鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』(集英社新書、2007年)を読む。
フランス文学者の著者は、小松川事件と金嬉老事件への接近を通じて、「われわれ」あるいは「私」あるいは「日本人」にとっての在日コリアンという課題について、思索し、それをおのれに突きつけた人でもあった。その直接のきっかけは、フランス留学時のアルジェリア戦争(1954-62年)にあったという。ヴェトナムから撤退したばかりのフランスは、同じく植民地支配していたアルジェリアの独立を暴力的に弾圧する。間近でのその体験が、翻って日本人にとってのアルジェリア、在日コリアンへ視線を向けさせることになった。
小松川事件(1958年)。大島渚『絞死刑』(1968年)のもとになったことでも知られている。当時18歳の在日コリアン・李珍宇は、女性ふたりを殺害し、死刑に処せられた。著者は、当時、それを単なる凶悪犯罪としてではなく、歴史的な差別・実生活での差別によって噴出せざるを得なかった側面をもつ事件として捉えている。そのときに大きな衝撃となった本が、朴寿南との往復書簡集であったのだという。そこでは、大文字の「民族」や「正義」を説く朴に対し、自らの悪を認識した李とのすれ違いがあった。
戦争責任、植民地支配責任を曖昧にしたまま、親日の朴正煕政権と佐藤栄作政権とは、極めて強引かつ頭越しに、日韓基本条約(1965年)を結ぶ。オカネで過去を不問に付すという決着は、決して真摯な議論に基づくものではなかった。そのように、根本的に過去を問い直すことなく、それの代償として差別を残した社会のなかで、金嬉老事件(1968年)が起きる。著者は8年間もこの裁判に関わり、支援し、ひとつの大きな結論を得ている。それは、如何に正当な告発であっても、すべての責任を他者に負わせる形であれば、必ず頽廃を招かずにはいない、ということであった。勿論、『絞死刑』で主役の「R」を演じた尹隆道や、李恢成らが、自分が金嬉老であってもおかしくないと証言した、その背景となっている日本社会の非人道性を全面的に認めてのうえである。そこを、李珍宇と金嬉老との違いとして見出しているのである。
すなわち、出自や立場の違いによらず、誰もがおのれに向き合えということだ。言うは易しく実現は難しい、ただ、著者の言うように、現在の日本社会がその観点からすれば最低の状況にあることにはひたすら共感を覚える。
「公然と戦前の日本を肯定する言説もあらわれたし、「愛国心」の合唱も始まった。「国益」だの「愛国」だのという言葉を恥ずかしげもなく口にするのは、「民族責任」の自覚のはるか手前にある無神経な態度で、国民国家の形成される19世紀ならともかく、とても21世紀を生きようとする人間のやることではない。」
「・・・私たち日本人は「戦争責任」を果たしてこなかった。現在この国で目にする政治やメディアや世論の頽廃は、その戦後史が作り出したものだ。このような傾向は、たぶん当分のあいだ変わることがないだろう。ただそのような無反省史観の作ろうとする醜悪な「美しい国」の陰で、それに同意しない人も少なくないだろう。」
●参照
○金元栄『或る韓国人の沖縄生存手記』
○朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
○朴三石『教育を受ける権利と朝鮮学校』
○枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
○荒井英郎+京極高英『朝鮮の子』
○林海象『大阪ラブ&ソウル』
○『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
○梁石日『魂の流れゆく果て』
○野村進『コリアン世界の旅』
○『世界』の「韓国併合100年」特集
○尹健次『思想体験の交錯』
○尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
○金石範『新編「在日」の思想』
○李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
○李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
○朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
○高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
○菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真