Sightsong

自縄自縛日記

金石範講演会「文学の闘争/闘争の文学」

2012-05-28 23:47:03 | 韓国・朝鮮

土日に働きすぎて振休を取っていた今日、東京外国語大学で金石範氏の講演会「文学の闘争/闘争の文学」があるというので、遠路はるばる足を運んだ。

会場には何も掲示がなく、何かの講義の一環として行われるようだった。学生たちの間に居心地悪く座った。(しかし、教室に枕持参で来て寝ていたり、講演中だというのに無駄話に夢中になっていたりと、やはり大学生の知性を疑ってしまう。わたしもそうだったのかもしれないが。)

金石範氏は1924年大阪生まれ、現在86歳。『火山島』は東アジアにおける最長の純文学だとの紹介があった。

金氏は以下のようなことを、最初は静かに、しかし次第に熱く話した。

○在日朝鮮人が日本語で書くということは、帝国主義・植民地支配の問題と関連する、根本的な問題だ。
○1910年からの1946年までの36年間、日本帝国は、「朝鮮と内地は一体」とのスローガンのもと、地球上から朝鮮を抹殺しようとした。それには歴史も文化も言語も含まれる。1930年頃から小学校では朝鮮語の使用が禁止され、1940年頃から朝鮮語の新聞が禁止され(朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』のみ認められた)、そして1942-43年頃に朝鮮語による雑誌が禁止された(代わりに皇国臣民化を目的とした日本語による翼賛的な雑誌『国民文学』が出された)。出来上がりは、「日本人化」であった。
○日本は過去から自由でなく、忘れようとしている。歴史清算はなされておらず、歴史に鈍感である。
○1965年の日韓基本条約は不平等条約であり、いつか直さなければならない(強制徴用の賃金未払い、慰安婦問題など)。ましてや北朝鮮との間は正常化すらしていない。こんな国は日本だけだ。
○在日朝鮮人は、日本による侵略(「併合」とはきれい事だ)の落とし子、所産である。戦前の金史良(『光の中に』など)も、戦後の在日朝鮮人文学の嚆矢である金達寿も、日本語によって書いた。金史良などは朝鮮語を使うことができたが、朝鮮語を学ぶことができない環境で育った多くの者は、日本語でしか書けず、日本語を客観視できない立場であった。
○奪われた言葉の代わりに「敵性言語」で書くということは、必ず倫理的側面にぶちあたるものだ。
○最初に同人誌に書いた『鴉の死』(1957年)は、故郷の済州島における四・三事件(1948年)をテーマにした。このとき、言葉の呪縛については考えていなかった。現場に行くことができず、日本語で現地の方言を書くというものだった。この作品は、1967年に新興書房から発行し(1000部ほど刷った)、その4年後に講談社から出した。作家としては世に出るのが遅れた。
○1960年代に日野啓三と対談したとき、日野は、『鴉の死』を実体験に基づく凄い小説だと思い込んでいた。そこで「体験ではない」と言うと、「信じられない」と絶句した。なぜ日野ともあろう者が、それだけで驚くのか。それは、日本の小説の判断基準が私小説にあるからだ。自分の小説は異なり、外れ者だ。
○朝鮮総連で仕事をしていたとき(~1968年)、『火山島』を自由でない朝鮮語で書きはじめた。しかし、朝鮮語では飯を食うことができず、また、発表の媒体もなかった。
○岩波書店の田村義也(のちに『世界』編集長を務める)が、『鴉の死』にショックを受けたとして、『世界』への執筆を勧めた。これが『虚無譚』(1969年)となり、田村義也が講談社に持ち込んでくれた。通常ならこのようなものを出すはずがない出版社だったが、結局は、田村の素晴らしい装丁で出すことができた。
○その頃、日本語で書いていいのか、深刻な課題として随分悩んだ。日本語とは何か。在日朝鮮人と日本語との関係は何か。そこに作家としての自由がありうるか、自由を持ちうるか。
○言葉には、個別的なものと、翻訳可能なものとがある。個別的なものは、音や形など生活の中で長年培われた民族的な形式であり、これが朝鮮人としての内的なものに影響するのではないかと思われた。一方、翻訳可能なものは、概念性のように普遍的に開かれた部分であり、これが個別性を超えると思われた。そして、虚構(フィクション)の世界に上げることにより、個別性を超えることができ、それにより作家たりうるとの確信を持つに至った。
○さきほどの私小説の伝統と関連付けて言うなら、自分の文学は「日本文学」ではなく、「日本語文学」である。
○パッションとは、あらゆるものを創り、また破壊する源泉である。そして想像力とは、宇宙の彼方まで想像できるとんでもない力、目の前にあるものを否定できる力である。文学にはこの両方が必要だ。
○サルトルは、「想像力は欲望から来ている」と言った。人間の生命力の根源は欲望である。パッションも、欲望の別の出方である。パトスこそがいのちの発現であり、ロゴス、理性は後から出来た。
○パッションは、英語ではイエスの受難も意味する。これが情熱とどう結び付くのか。磔刑も情熱がなければできない。
○自分にもいまだパッションがある。あとふたつ位の長編を書きたい。しばらく書いていないと、身体の中から突きあげてくるような苦しさを感じる。書かないことは耐えられない、想像できない怖ろしいことだ。

会場から、過去の清算はどうあるべきなのかとの質問があった。金氏は次のように応えた。

○慰安婦にせよ、強制連行にせよ、過去の歴史の検証がなされていない。
○日韓基本条約を不平等条約として見直さなければならない。謝罪なく、5億ドルで決着させ、請求権を放棄した形はおかしいものであった。しかし、韓国の司法でも、請求権を見直すなどの動きが出てきている。
○2010年は日韓併合百年であったが、『世界』など一部を除いては、メディアはほとんどそれに触れなかった。
○まずは北朝鮮との国交正常化が必要である。拉致問題はそのプロセスで解決するものではない(主客転倒)。日中国交正常化(1972年)の前後で北朝鮮とも国交正常化していれば、拉致など起きなかった。小泉・安部政権になって、拉致が政治利用され、日本政府は急激な右傾化を見せた。そんなことでは拉致問題は解決できない。
○国交正常化は、北朝鮮の民主化の助けになるはずだし、統一にも貢献するだろう。

●参照
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚・詐欺師』 済州島のフォークロア
金達寿『玄界灘』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
梁石日『魂の流れゆく果て』(大阪での金石範の思い出)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』
波多野澄雄『国家と歴史』
鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
野村進『コリアン世界の旅』
『世界』の「韓国併合100年」特集
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真


『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る』

2012-05-28 22:02:28 | 関東

小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)のDVDが、関係者による映像を観ながらの詳細な対談、シナリオ、小論を収めた本とともに、DVDブック『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る』(太田出版、2012年)として出ている。これが小川作品はじめてのDVD化である。早速、解説を参照しながら、じっくりと観た。

三里塚は明治以降の開拓の地であり、戦後は引き揚げてきた満洲開拓民や土地を奪われた沖縄人たちも開拓に加わった。明治天皇の御料牧場もあったことは偶然ではなく、牧畜はできても農地には適さない場所であった。それを開拓者たちは10年以上かけて開墾し、土を育ててきた。そして1963年には、政府により、養蚕を推進するシルクコンビナート構想が開始される(映画にも、桑畑が映しだされる)。ところが、1966年、政府により突如として新空港用地として指定される。さまざまな利権の他、オカネで立ち退かせやすい貧しい農民だとする思惑もあった。これが、三里塚闘争のはじまりである。かけがえのないものとして育ててきた農地と人生を、ひとつの命令で簡単に左右しようとするオカミへの激しい怒りであった。

のちに三里塚闘争は分裂し、複雑化を辿ることになるのだが、小川プロの三里塚シリーズ第一作『三里塚の夏』が撮られた1968年は、「三里塚芝山連合空港反対同盟」、全学連などの学生、そして主役たる農民たちが協力し、闘争を激化させていった時期にあたるようだ。ここには、彼らが模索し、話しあい、真摯に理不尽な権力行使に向かいあう姿がある。

測量に来る「新東京国際空港公団」とそれを装った私服警官、機動隊の判断停止による暴力は凄まじい。それは昔も今もそうかもしれない。しかし、下校してきた子どもたちを通すため、機動隊が左右に道を開ける場面を視ると、そうでもない、非人間性はさらに進んでいるような気がしてくる。沖縄県高江でヘリパッド建設に反対し座り込む人びとに対し、国は通行妨害禁止仮処分の申し立てをしたが、その中には当時8歳の子どもも含まれていたという悲しい事実を思い出してのことだ。もはや、権力行使は個々の相手が視えない形でなされている。

それはともかく、剥き出しの暴力や、闘う者たちの顔を撮る大津幸四郎のカメラは怖ろしいほどの緊張感を今に伝える。至近距離での撮影の挙句、狙われて逮捕されてしまうのだが、そのあとを受け継いだ田村正毅が機動隊員たちの顔をアップで撮る迫力もすさまじい。

カメラのことが色々と書かれている。ボレックスでは連続撮影に難点があり、基本的にはアリフレックスSTを使っている。但し、放水車からの水を浴びながら撮る場面では水に強いスクーピック、最後の三里塚空撮は16mmではなく35mmのアリフレックス。この作品は、モノクロ撮影と非シンクロ撮影の掉尾を飾った作品だといい、このことが、ドキュメンタリーとしての特性に影響している。このあと、小川紳介はシンクロ撮影により1ロール1カットの実験に入っていくのだという(その過程で、ボリュー200を使うも、シンクロが厳密ではなくてうまくいかなかったらしい)。

映画としての完成度はもとより、カメラの技術も、状況と密着した緊迫感も素晴らしい。そして、対談を読みながら観るとさまざまな発見がある。大推薦である。

●参照
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(萩原氏も映画に登場する)
鎌田慧『抵抗する自由』
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
前田俊彦『ええじゃないかドブロク(鎌田慧『非国民!?』)
大津幸四郎『大野一雄 ひとりごとのように』