Sightsong

自縄自縛日記

ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』

2012-05-13 23:25:53 | 思想・文学

ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(河出文庫、原著1996年)を読む。

ドゥルーズの体感は音楽を聴くように読むことで得られる。そんなふうに勝手に思っていたところ、本書の訳者あとがきにおいても、「読み飛ばしていくのが望ましい」と書かれていて、共感してしまった。ドゥルーズは、手を変え品を変え、饒舌に、同じことを喋り続ける。テキストをニュートリノのように脳内を通過させて、カミオカンデよろしく時折反応させるというイメージである。

本書は章や節ごとに語り手を変える対話形式、ただ、相手のパルネもドゥルーズ化している。その意味では変奏にもなっていない。

重要なのは構造を持った樹木や森ではなく、つねに中間にある草である。一本の線において重要なことはつねに中間である。草原、草、ノマドはつねに中間にいる。草は速度である。

二元論と戦い、吃りを、自己の言語のなかにマイナー言語を見出すこと。樹木に対する、リゾーム、草。画一化に抗する複雑な多様体。歴史に対する地理学。点に抗する線。階層秩序と命令からなる樹枝状のシステムから、絶えず逃走線を描きつづけること。草は自らの逃走線をもっている。

ホワイト・ウォール―ブラック・ホールのシステム。つねに私たちは意味作用の壁の上にピンで止められ、黒い主観性の穴の中に埋め込まれている。顔の発明は権力である。どのように、ブラック・ホールから脱出できるのか。

作動配列(アジャンスマン)。変化するすべてのものはこの作動配列を通過する。あらゆる欲望は、構造的な作動配列に貼りつく。フロイトの精神分析は、権力としての硬直した作動配列に過ぎない。そして、国家権力は作動配列を超コード化する。革命幻想ですら、構造化した作動配列への回帰に憧れている。それは反革命的である。私たちがなすべきことは、また新たな作動配列を生み出すことだ。

―――そんなところだ。確かに、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』での饒舌が、ここにも展開されている。しかし、同じことを別のやり方で、あるいは別の作動配列で、喋るのを体感し、時にはドゥルーズになりかわって喋ってみるのも悪くない。哲学は反権力である。

ふと、ドゥルーズが、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』を読んでいたなら、ネットワーク上で常に姿を変え続ける世界に何らかの共振をしていたのではないか、などと思ってしまった。

●参照
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』