Sightsong

自縄自縛日記

斎藤環『生き延びるためのラカン』

2012-06-15 10:53:02 | 思想・文学

斎藤環『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫、原著2006年)を読む。

先日、はじめてジャック・ラカンの著作に触れ、単純なようでいて、何だかよくわからず、もやもやしていたのだ。わたしも御多分に洩れず、フロイトやユングを多少読みかじったことはあっても、あとは、すぐに忘れてしまう概説書のみ。確か、大学生のころに読んだ岸田秀の何かの本で、解り難い文章を書いて威張っているとラカンを罵倒していたこともあって、自分には無縁な存在かなと決めつけていた。

それで、これも入門書。しかし、「日本一わかりやすいラカン入門」を自称していることもあって、難しいことを、ベタに、饒舌に、語っている。分野は違うが、わたしも難しいことをいつも小難しく書いたり話したりしてしまい、顰蹙を買っている。これはなかなか勇気の要ることで、自分への教訓にもなった。

一方で、解りやすい雰囲気をまとって、ウソを述べる人も少なくない(環境問題でも、社会問題でも)。誰とは言わないが、そういう人がウケることが多い。国防問題や領土問題を単純なストーリー仕立てにする人が、偏狭なナショナリスト(と、その予備軍たるたくさんの人)に奉られ、下手をすると為政者や大臣にまでなってしまう。環境問題を陰謀論仕立てにする人が、なぜかリベラル層に受け、折角の社会を変える力を別のベクトルに変えてしまう。腹立たしいことだ。

閑話休題、と言いつつ、興味がある人はこの本を読めばよいのだ。勿論、違和感やすっきりしない点は多いが、そうでなければならない。

著者も言っている。あまりにもわかりやすいものはクセモノで、特権階級を持ってしまったり、カルト宗教にハマったりする。ラカンの魅力は、わかったと思ってもさらに永遠に続く解り難さである、と。そして、人間は愚かだからこそ人間であるのだ、と。

ジル・ドゥルーズが、『ディアローグ』のなかで、フロイトの精神分析を批判し、これは権力としての硬直した作動配列(アジャンスマン)に過ぎない、私たちは絶えず新しい作動配列を創り続けなければならぬと説いていたが、そうでもないと思えてきた。

●参照
ジャック・ラカン『二人であることの病い』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』