合田正人『レヴィナスを読む <異常な日常>の思想』(ちくま学芸文庫、原著1999年)を読む。
エマニュアル・レヴィナスはリトアニア出身のユダヤ人哲学者であり、その出自が自身の哲学に大きな影響を及ぼしている。わたしがレヴィナスの『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(『存在の彼方へ』)を読んだのはわずか1年前のことだが、そのときの驚きが、まだ残響となって残っている。それは多くの人に共通するレヴィナス体験なのかもしれず、著者も、「さまざまな分野で日常の深刻さと格闘する多くの人々がレヴィナスに注目しているのは決して偶然ではない」と述べている。
もっとも、本書全体は「言った、言わない」の細かな検証であり、その意味で、興味を持てない箇所も多々ある。レヴィナス自身による他の著作を読んだほうがよかったのかもしれない。
著者の表現によれば、娑婆は満員電車である。「語りうるものは語られたことである」とする大きな物語に世界や自身を預けるのではなく、すべての要素を並列に置くこと。ならば、この満員電車で、如何に他者と接触し、他者からの予期せぬ攻撃に敢えてわが顔を晒すかという点において、レヴィナスのいう「倫理」が問われる。いかに、「他者性とのアレルギーなき連関」を探っていくかということだ。勿論、実際の、あるいは比喩としての満員電車はこの意味では非倫理であり、それだからこそレヴィナスが求められている。
ただ、著者はレヴィナスを現代逃走論の系譜の筆頭に挙げられるとしている。実際に「逃走論」を書いているとはいえ、これには違和感がある。常に新たな文脈での逃走線を描き、権力構造を無化するという逃走論ではなく、レヴィナスは、権力構造であれ何であれ、死の危険がある顔を晒し続けることを説いたのではなかったか。もっとも、それは、「私は私であらねばならない」という自同律の不快さ、居心地の悪さを意図しており、それが思考の出発点であるかもしれないのだが。
本書において、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの思想との連関をみていることは興味深い。ヴィトゲンシュタインは、「語りえないことについては沈黙しなければならない」と書いた。「語りうることは、既に語られたことである」の裏返しである。それは、語りえぬこと=予見不可能性の支配する世界でこそ、勇気をもって死を賭すのではなく、死を前提に、顔を晒さなければならないという倫理につながるのであろう。いかなる身振りも、既に類型化されたものであってはならず、ましてや馴れ合いや権力構造の是認であってはならない。暴力と非倫理が充満する満員電車の娑婆において、さまざまな想像の出発点になるものではないか。
●参照
○エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限』
○エマニュエル・レヴィナス『存在の彼方へ』
○ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』
○末木文美士『日本仏教の可能性』