Sightsong

自縄自縛日記

フランシス・ベーコン展@国立近代美術館

2013-03-25 15:14:30 | アート・映画

国立近代美術館に足を運び、フランシス・ベーコン展を観る。

学生時代にMOMA(ニューヨーク近代美術館)の所蔵品展で目にして衝撃を受けて以来、ずっと気になる画家である。わたしの愛する作家、J・G・バラードも、ベーコンを戦後世界でもっとも重要な画家だと位置づけている(『人生の奇跡』)。

ベーコンが展開してきた世界については、このようなものだというアウトラインを脳内に描いているつもりであったし、衝撃への耐性も持っているつもりでいた。それでも、この凄さには、あらためて圧倒されてしまう。観終わったいまは、やりきれなさと動悸を覚えている。

どの作品においても、身体は、おのおのの部位間の有機的なリンクを断ち切られ、残酷なほどの肉片の山と化している。ただの破壊後の廃棄物の山ではない。破壊後も、精神のようなものが、執念を抱き続け、説明のしようがない物体を形成しているのである。

したがって、動きながらにして同時に死体でもある暗黒舞踏と通底するところがあることは、あらためて言うまでもない(以前、その共通項について、ダンサーとの共演などを通じて身体と音楽とをリンクさせてきたベーシストの齋藤徹さんが、興味深いと言っておられた)。会場では、土方巽の舞踏の映像が流されている。土方も、ベーコンの絵にインスパイアされていた。

なかには、マイブリッジの連続写真との関連を指摘された作品がいくつもある。計測は、時間的にも、精神の受容という意味でも、分断され、決して現実の一部ではない。計測も、近代の地獄を象徴することばかもしれない。

身体とは何か。ベーコンの作品の中には、肖像画の真ん中に黒く丸い穴が穿たれたようなものがある。もしそれが弾痕のイメージだとして、ではなぜ、眉間を撃ち抜かれると、人は精神ごと死ぬのか。これは医学の問題ではなく、生や死に関する受容の問題である。もちろん、このような問いは最初から限界を超えられないことがわかっているものであり、追及しても解を得ることはできない。

今回はじめて目にした作品に、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのシリーズがある。地面に存在ごと焼き付いてしまうような光の下で、男の影は、自らの化身であると同時に犬にもなっており、男は、犬の首に結わえられた紐をしっかりと持っている。掻きむしっても納得などできない実在である。ベーコンは、しかし、掻きむしり続けた。

私事だが、幼少時、喘息で呼吸ができず、半睡状態でいつも決まった悪夢を視た。自分が、階段のある一段において、舌だけで逆立ちをしなければならない運命となり、苦しんでいた。はじめてベーコンの絵を観たとき、そのことを思い出した。

意味不明?もとより意味などない。ベーコンの世界は、意味付けを拒絶している。そして、身体の理不尽さに関わる敏感な神経に、容赦なく、アクセスしてくるのである。

●参照
池田20世紀美術館のフランシス・ベーコン、『肉への慈悲』
J・G・バラード自伝『人生の奇跡』


レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』

2013-03-25 10:46:20 | アヴァンギャルド・ジャズ

Leo Cuypers (p)
Willem Breuker (sax, cl)
Han Bennink (ds, ss, tb)
Arjen Gorter (b)

レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』(BVHAAST、1981年)。中古レコード店の棚で見つけて、こんなものがあったのかと喜んだ。

キュイパーズは、ウィレム・ブロイカーを中心としたグループ「コレクティーフ」のピアニストであった。キュイパーズとブロイカーがデュオで演奏した記録として、『... Superstars』(>> リンク)という愉快な盤があったが、ここでは、さらにハン・ベニンクとアリエン・ゴーターを迎えている(ゴーターもコレクティーフ人脈)。

解説におけるキュイパーズの思い出話が面白い。曰く、共演者たちに、歴史的な必要性があるのだと告げてYesと言わせ、逃げられないようにした。ちょうど、ロナルド・レーガンが米大統領になったばかりの時期で、「Happy Days Are Here Again」などと嘯いていたことへのアンチテーゼとしてタイトルを付けた。「Misha」という曲は、「Greensleeves」を原曲としており、ラジオのムード音楽(DJの低い声による恋話付き)をイメージしたからこそ、ミシャ・メンゲルベルグが嫌悪するに違いないと思って捧げた。・・・と。

そんなわけで、諧謔や底知れぬユーモアは、欧州のアヴァンギャルドに付いてまわる。

いきなり、焦ったようにブロイカーのブロウとキュイパーズの煽りがある。ベニンクは相変わらず文脈を無視したドラミングで突っ走る(文脈という「コード」からの絶えざる逃亡こそが、彼らのアイデンティティなのだと言いたい)。ベニンクのソプラノサックスとブロイカーのサックスとの共演もある。常に、誰かが何かをしでかすのではないかと思いながら聴かなければならない。

聴いていると愉快でたまらない。いつだったか、コレクティーフが来日した際に、メンバーに、アムステルダムの彼らの根城「Bimhuis」に行くといいぞと云われたのだったが、まだオランダ入国を果たせないでいる。夜中に徘徊して、ライヴを聴けたら最高だろうな。


ブロイカーにいただいたサイン(2004年)

●参照
ウィレム・ブロイカーとレオ・キュイパースとのデュオ『・・・スーパースターズ』
ウィレム・ブロイカーの『Misery』と未発表音源集
ウィレム・ブロイカーが亡くなったので、デレク・ベイリー『Playing for Friends on 5th Street』を観る
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ウィレム・ブロイカー登場)
ウェス・モンゴメリーの1965年の映像(ハン・ベニンク参加)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(ハン・ベニンク参加)
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8(浅川マキとの共演)
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』