学生時代にMOMA(ニューヨーク近代美術館)の所蔵品展で目にして衝撃を受けて以来、ずっと気になる画家である。わたしの愛する作家、J・G・バラードも、ベーコンを戦後世界でもっとも重要な画家だと位置づけている(『人生の奇跡』)。
ベーコンが展開してきた世界については、このようなものだというアウトラインを脳内に描いているつもりであったし、衝撃への耐性も持っているつもりでいた。それでも、この凄さには、あらためて圧倒されてしまう。観終わったいまは、やりきれなさと動悸を覚えている。
どの作品においても、身体は、おのおのの部位間の有機的なリンクを断ち切られ、残酷なほどの肉片の山と化している。ただの破壊後の廃棄物の山ではない。破壊後も、精神のようなものが、執念を抱き続け、説明のしようがない物体を形成しているのである。
したがって、動きながらにして同時に死体でもある暗黒舞踏と通底するところがあることは、あらためて言うまでもない(以前、その共通項について、ダンサーとの共演などを通じて身体と音楽とをリンクさせてきたベーシストの齋藤徹さんが、興味深いと言っておられた)。会場では、土方巽の舞踏の映像が流されている。土方も、ベーコンの絵にインスパイアされていた。
なかには、マイブリッジの連続写真との関連を指摘された作品がいくつもある。計測は、時間的にも、精神の受容という意味でも、分断され、決して現実の一部ではない。計測も、近代の地獄を象徴することばかもしれない。
身体とは何か。ベーコンの作品の中には、肖像画の真ん中に黒く丸い穴が穿たれたようなものがある。もしそれが弾痕のイメージだとして、ではなぜ、眉間を撃ち抜かれると、人は精神ごと死ぬのか。これは医学の問題ではなく、生や死に関する受容の問題である。もちろん、このような問いは最初から限界を超えられないことがわかっているものであり、追及しても解を得ることはできない。
今回はじめて目にした作品に、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのシリーズがある。地面に存在ごと焼き付いてしまうような光の下で、男の影は、自らの化身であると同時に犬にもなっており、男は、犬の首に結わえられた紐をしっかりと持っている。掻きむしっても納得などできない実在である。ベーコンは、しかし、掻きむしり続けた。
私事だが、幼少時、喘息で呼吸ができず、半睡状態でいつも決まった悪夢を視た。自分が、階段のある一段において、舌だけで逆立ちをしなければならない運命となり、苦しんでいた。はじめてベーコンの絵を観たとき、そのことを思い出した。
意味不明?もとより意味などない。ベーコンの世界は、意味付けを拒絶している。そして、身体の理不尽さに関わる敏感な神経に、容赦なく、アクセスしてくるのである。